9. 生きることと生きる意味と蝸牛のバター焼き(ザッハ視点)


あんなに笑ったのは本当に久しぶりだったように思う。

まさか、蝸牛をポケットに詰めているとは思わなかった。

ザッハは自分もスープを飲みながら

目の前で鳥肉にかぶりついている少年を見た。

例の蝸牛もバターを詰めて焼かれて目の前の皿に並んでいる。

ザッハにしてもリンコに助けられるまでは死ぬことを覚悟していたから

このように食事をできるということは本当に喜ばしいことには違いなかった。

例え、死を自ら望むような気持ちがどこかにあったとしても。

「落ち着いて食べたらいいよ。

 足りなかったら追加で注文するから。」

ザッハの言葉に何を思ったのか、リンコは顔を赤らめて鶏肉を一旦皿に戻すと

口の中でもごもごと何ごとかつぶやいている。

たぶん、急いで食べ過ぎていたことに気づいたのだろう。

リンコが裕福な暮らしをしていたことは想像に難くない。

無邪気な言動、それと相反する大人びた表情、そして見事な武術の動作、

これ程矛盾した人間をザッハは見たことがなかった。

――楔となる人間は普通とは違うものなのかもしれない。

自らが楔となり得なかった事実に思いをはせると少し胸が痛んだ。

ザッハは自嘲の笑いを浮かべた。

割り切ったつもりでも、まだ、胸が痛む。

迷い込んできた子供。

だが、リンコの気持ちには迷いがない。

その勢いに引きずられるような気がする。

迷いのない強さが、この幼い子供を際立たせていた。

その強さを持たなかった亡き人の影が頭をよぎり、ザッハの瞳は一瞬翳った。

最後に聞いた言葉がふいに耳の奥に蘇る。

『私あなたといる時、とても幸せだった。

ザッハを好きになれたなら、よかったね。』

けれど、彼女の腕はけしてザッハのことを抱くことはなかった。

彼女の趣味で簡素に作られた寝室のその冷たい石造りの床に座るテレーゼ。

彼女の腹部には、小さな短剣が刺さったままだった。

光沢のある卵色のドレスに広がっていく赤い染み。

腕の中には彼女の求めていた人の骸。

男女の痴情のもつれの末の刃傷沙汰なんて、ごくありふれた話だ。

愚かしいことだ、あの純粋で美しい妻を捨てて、手練手管に長けた

売春婦とみまがうような女に狂うとは。熱病にうかされたような男の目を思い出す。

『俺と彼女の仲を邪魔をするな。彼女はもうすぐ俺のものになる。

正妻として迎えるなら、他の男を切るといってくれた。』

恋とは残酷なものだ。一人を選ぶという愚かさ。

憤りながら彼女の気持ちに入り込むことができるかもしれないと喜ぶ自分がいたことを

ザッハは苦々しく思い出す。

ザッハにとって彼女はただ1つの望みだった。

楔になりたかった。

その願いは叶わなかった。

彼女を幸せにしたかった。

その願いも叶わなかった。

いつも望みは自分の腕をすりぬける。

自分の無力さに打ちのめされる。生きていることは惰性でしかない。

望みを失ってから

生きる意味を見出せないのだ。

自分はあの時からどこか壊れているのかもしれなかった。

口元が微かに歪んで、笑ったような表情になる。

「蝸牛1つどうですか。おいしいですよ。」

少年の声が突如響く。

薄黒いベールの向こうから

一瞬にして宿屋の食堂のざわめきに引き戻されて、

ザッハは瞠目した。

「あ……あ、そうだね。」

目の前にからを剥いた蝸牛をつきさしたフォークを差し出されて

少し躊躇する。

このまま喰えというのだろうか。

「一番大きいのどうぞ。」

確かに大きい。他の蝸牛の倍ほどの大きさだ。

だが、ザッハは蝸牛がそんなに好きなわけでもなかった。

君が食べたらいいよ。

そう言おうとして口を開いた瞬間、口に蝸牛がつっこまれて

ザッハは目を白黒させた。

香ばしい味が口に広がる。

味がいいのは採りたてだからだろうか。

ポケットの中の蝸牛だということを思い出して、小さく微笑む。

「なにか嫌なこと思い出したんでしょう。

 飯食って寝たらなおると思いますよ。きっと。」

リンコが真面目な口調で言う。その目は黒くて何を考えているのかよくわからない深さをもっていた。

――分かってやっているんだろうか。それとも無意識なんだろうか。

ザッハは囚われかけた暗い感情が少年の言葉によって切り離されたのを感じて、リンコを見つめた。

その瞳はやはり強い光を放っている。

ザッハは少年に囚われたいと願った魔物の気持ちが分かるような気がした。


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