10.酒とジュースと人間の三大欲求(凛子視点)


ザッハからおいしいと聞いていたが、その店の食事は本当においしかった。

パンは焼きたて、肉はジューシー。

宿屋の一階が食堂なのだが、

泊りの客よりも食事だけ取る客の方が多いのではないかと思われる程だ。

凛子とザッハが入った木のドアとは別に

横にある大きな両開きの扉から直接食堂に入れるようになっている。

店には木でできた大きな机と椅子が乱雑に並べてあって、

それがかえって店に落ち着きを与えているようだ。

店内は客でごったがえしていた。

喧騒はあたたかい。

「どこの国でもおいしい食事には人が集まるんですね。」

凛子は鳥肉の3切れ目に手を伸ばした。

「そうだね。このラングル亭は特に鳥肉の香草焼きと自家製のクイザがおいしいって評判なんだ。

リンコの今たべてるのがそうだね。」

ザッハは水色の瞳の奥に穏やかな微笑を浮かべて相槌を打った。

笑うと目元が微かに垂れ目になるね、と思いながら凛子は蝸牛を頬張った。

デリシャス。

バターの中になにか香りの強い香辛料を刻んで入れてある。

最高だ。

客層は、若い派手な装飾のついた服のきれいなお姉さんがぽつぽついるくらいで

あとはだいたい男の人だった。

そしてみんな茶色いクイザという酒を飲んでいる。

ここは食堂兼居酒屋といったところなのだろう。

ザッハは自分はクイザを

凛子にはヴァンという果実の汁を絞った赤紫色のジュースを頼んだ。

濃厚な甘味と適度な酸味で非常に美味だった。

「落ち着いて食べたらいいよ。

 足りなかったら追加で注文するから。」

凛子は3切れ目の鳥肉を口につめこんで、次の香草焼きに手を伸ばそうとしていた。

対照的に、優雅にナイフとフォークを扱っているザッハの忠告めいた言葉に

少しがっつきすぎたかもしれないと反省した。

でも、本当におなかがすいていた。

ほんの数時間食べなかっただけなのに

そういう空腹の度合いではなかった。

もしかしたら1日以上寝てたのではないだろうか。

あの3つの死体と一緒に。あの森で。

白濁した死体の目をふいに思い出して、凛子は眉をひそめた。

―― ぞっとしないな。

凛子は手にもった鳥肉を見る。

人も死んでしまえば、所詮この鳥肉と変わらない。

肉の塊だ。

あの森で殺されたらそこでジエンド。

異界の森で朽ち果てて、二度と戻れない。

真っ赤にながれる私の血潮。

生きているってすばらしい。

手のひらを太陽に。

凛子は子供のころ適当に聞き流していた

歌詞の重さをかみしめた。

神様ありがとう。

そして今後とも1つよろしくお願いします。

凛子は人を殺して自分の生命を確保したという

その厳然たる事実に瞑目する。

まだ、命の重さを処理できないけれど、

自分とザッハが生きているという事実について、喜びあおうと

向かいに座っている男を見つめる。

ザッハの目は暗く翳っていた。

その表情を見た瞬間。

すとんと理解できた。

――ああ、ザッハは死にたいのか。

決して長くない人生で、凛子はその手の澱みを何度もみてきた。

凛子はザッハの周囲にただよう、暗い水のようなものの名前を知っている。

――違う世界なのに人の感情は同じなのだろうか。

馬鹿だなあ。

そんなの飯食って、糞出して、寝たら直るよ。

ザッハの口に蝸牛を突っ込んで、凛子は薄く笑った。

糞に代えて何かを入れたら人間の三大欲求である。

それは人生においていまだ凛子のあずかり知らぬことであった。

凛子はお酒は飲まない。

忘れたい過去なんてまだない子供だからかもしれない。


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