6. 楔の少年と黒い瞳とその力(ザッハ視点)


小川の水では傷口を洗うと、ひきつれたような痛みが走る。

ここまで無謀なことをしでかして、なお生きているとは

まるで私が死ぬことを運命が許さないようではないか。

皮肉なものだ。

そう思いながらも、いつもの習慣で神に感謝の祈りをささげる。

――慈しみ深きトーザとあまねく神々に感謝を。

ザッハ・エリドゥは、天地を創造したとされる大地の女神の名に祈りをささげると水をすくって口にした。

およそ、2日ぶりに喉を通る水の感触が身体に染み渡るようだった。

横から、抑揚の少ない声がした。

「おいしい。」

ザッハの横にいつのまにか黒い髪の少年がやってきて、同じように川の水を口にして、呟いている。

少年は背負っていた鞄からみたことがない程薄いガラスのような瓶を取り出すとそこに水をいっぱい詰めて、鞄の中に戻した。

自分を窮地から救ってくれた不思議な少年だった。

「助けてくれてありがとう。私の名前はザッハ。君は?」

ザッハは子供向けの微笑みを浮かべて少年に語りかけた。

「リンコといいます」

ややぎこちなく、リンコと名乗った少年は、ちょっと困ったような顔をして、ザッハを見つめる。

聞いたこともない名前だ。異国の少年なのだろうか。

結構整った顔をしているが、幼い顔立ちだ。声がわりもしていない、おそらく、12、3歳だろうか。

――それにしては、あの身のこなしは尋常ではない。

ザッハの脳裏に身体を拘束されているときに見たリンコのよどみない動きが浮かぶ。

鍛錬を積まなければ出来る動きではない。

「君は……」

なにか、武術を、といいかけてうっかりリンコの瞳を凝視して、ザッハは困惑した。

感情が読みにくい黒い瞳がじっとこっちを見ている。

吸い込まれるようだった。

目をそらして、ザッハはため息をついた。

「できたらあまりこっちを見ないでくれ。楔の瞳に拘束されたくないんだ。」

リンコがその言葉に首をかしげて、ザッハの瞳を覗き込んだ。

ザッハは多少いらだって目を逸らす。

それは、冷静沈着を旨としているザッハにとっては甚だ不本意な行動であった。

少年にとって失礼な態度であることは否めない。

なぜなら、少年は見も知らない自分を助けてくれたのだから。

意味どおり命の恩人だった。

本来であれば、いくら感謝してもしたりないところだろう

問題は彼が楔であったというだけだ。

「楔っていうのはなんですか。」

少年は黒い瞳でザッハを見据えた。やはり、肝がすわっている。

「魔物に祝福された者のことだよ。」

ザッハは目を瞑り、多少の自嘲の笑みを浮かべる。

ザッハが知っている楔はこのリンコという少年を除いて、1人しかいない。

それは彼にとって多分に屈辱的なことであった。

「祝福……魔物……」

リンコには思い当たることがあるようだった。

魔物、ザッハはその存在を見たことがない。物語として聞いたことがあるだけだ。

「楔の剣っていうのは……」

リンコは自らの手にもっている、美しい細剣を見つめている。

その優美な銀色の剣の柄の部分の赤い石、その石を囲むように配置された、二匹の蛇。

ザッハはその石の禍々しい輝きにその魔物の本質を見たような気がした。

「魔物そのもの。楔の為に形をかえる」

リンコはぼとっ、と手元から剣を滑らせて剣は半分川の水につかった形になる。

剣の石が、一瞬いらだったようにきらめいた。

「魔物ってなんですか。どうして、何の為に人を祝福するんです?祝福されるとどうなるんですか?」

凛子は剣を拾うこともせずに矢継ぎ早に質問を浴びせた。

ザッハはリンコが感情を顕わにする姿を初めて見て、少し驚く。

――自分が楔であるということをわかっていない

それどころか、楔という言葉そのものを知らない。

少なくともガヴァサイルの人間ではないようだ。

「何もわからない」

気がつくとリンコは座り込んでいた。おそらく、自分では気がついていないのだろう。

茫然と座り込む姿は、リンコが人に頼らないことに慣れている人間だということを示していた。

ザッハはそんなリンコの子供らしからぬ態度に痛ましさを覚えた。

――可哀想に。

「逃げましょう。」

少年が微笑んで囁いた時の衝撃は生涯忘れられないだろう。

都合のいい、夢を見ているのだと思った。

死の神ディバスの支配するという根の国に死者を連れて行くのは黒い瞳の少年だという。

テントの入り口から入ってきた剣を持った少年はそんな伝説をザッハに思い起こさせた。

盗賊を淡々と気絶させ、頭の男が振り下ろした剣を軽々と受けとめる。

もしかしたら、人間ではなく魔物かもしれないと思った。

――魔物ではなく楔だったわけだが。

感情の乏しい少年は孤高の月のごとくみえた。

強い少年だろうと思う。そして、何の縁もない自分を助ける程、お人好しなのだろう。

ザッハはその少年に親愛のような気持ちを持ち始めていた。

ザッハはリンコの肩を静かに抱いた。

「大丈夫か。」

そのとたん、リンコがすっと肩を腕から抜いてザッハに対峙する形をとった。

茫然と虚空を見ていた目に強い光が戻った。

―― 警戒されてる。

しかし、こちらが悪人の場合は、気を許したように振舞ったほうが賢明だと思うんだが。

世慣れていないのだろうか。

それとも、それほど自分の腕に自信があるのだろうか。

どちらにせよ、媚びない態度は少年に威厳のようなものを感じさせた。

ザッハはリンコに優しく微笑んだ。

茶色い少し癖のある髪がふわりと風にゆれる。

水色の瞳は湖水のごとく穏やかで、普段は表に見せない精神の気高さを映し出しているかのようだった。

「君はガヴァサイルの者じゃないね。魔物の祝福を受けて、どこかからここに来たんだね?」

ザッハの声の暖かさに何を感じ取ったのか、リンコの眼差しにあったよそよそしさがわずかに消えたような気がした。

「そうです。ここはガヴァサイルというんですね。」

リンコがポツリともらす。

「そう、ここはガヴァサイル。」

「リンコは私を助けてくれた。だから、私はリンコの力になろう。心細いだろうが、大丈夫だ。きっと戻れるよ。」

リンコは一瞬くいいるようにザッハを見て、それから小さく笑った。

「ありがとう。」

それは、あまりにも急激な変化で、息をのんでザッハはリンコを見つめた。

暖かな風が通り過ぎたような錯覚を覚えて、ザッハは何度か頭を振る。

さすがに楔は人たらしだ。

そして、首をかしげるリンコに、からかうような視線を送ると、立ち上がってリンコに手を差し出した。

「そう、じゃあ、まず、君にガヴァサイルと魔物と楔の話をしよう。」

リンコがザッハの手をとってたちあがる。

ザッハはそれを見て、小さく笑うと、その繊細な顔立ちによく似合う皮肉気な笑顔を浮かべた。

「リンコ、君は幸運だ。私ほど、楔に詳しい者はあまりいないだろうからね。」


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