5. 悪い人と善い人とその判断 (凛子視点)
凛子はテントの入り口の横にそっと身をよせる。
「何をしている。紐をはずせ。」
きつい口調で身体を紐で拘束された男が凛子にいいつのるが、凛子は首を振って動かない。
凛子は迷った末に剣を左手に持ち替えた。
頭の中でやるべきことを何度も考える。極度の緊張で口の中が乾いていた。
――来る。
テントの入り口まで人が来る気配がした。
これからの殺戮の想像に酔い痴れた、醜悪な笑顔を浮かべて、男が入ってくる。
大振りなナイフを手にしている。
凛子は男が入ってくるタイミングを見計らって、鳩尾に素手で渾身の一撃を食らわした。
すかさず、男の右手を足で払う。ナイフが地面に落ちた。
――なんとか、なった。
男は何が起こったのかわからないという驚愕の表情を浮かべて凛子を睨み、身体を折り曲げてその場で崩れ落ちる。
激しい動悸を抑えきれぬまま凛子は黙って腕で男の首を絞める。
人間の体温は暖かく、皮膚は汗で滑る。人間の身体は脆い。私もこの醜悪な男も。
だから、凛子が習ってきたすべての技は急所は攻めてはいけないというルールが前提になっていた。
男の意識が完全に落ちたのを確認して、凛子は逡巡するように男から離れた。
そのまま、縛られていた男のもとに走りより今度こそ完全に男を自由にした。
「早く逃げよう。」
凛子がかろうじて微笑を口元にのせて、男に手を差し伸べて立ち上がらせようとしたその刹那、
男は縛られていたことが嘘のような、流れるような動きでテントの入り口に倒れている男に近寄ると、
そばにおちているナイフを拾ってその首をかききった。
「あと何人だ。」
男の手元には躊躇や迷いは全くなかった。
凛子は掻ききられた男の喉から大量の血が流れ出るのをみた。
――ああ、殺してしまった。殺して、殺される。
凛子は自分の足元がすっと冷えたのをどこか他人事のように感じていた。
――まだ、だめだ。
気を失うのも、正気を失くすのも今は駄目だ。
それをしてもいいのは安全な場所についてから。
でも、安全な場所なんてあるのだろうか。
「あと2人、頭ともう1人いる。」
感情を無くした声で凛子は答える。
男はナイフを片手にしっかりとした足取りでテントの入り口の布のかかっているところに近づくと、そこから外を伺っている。
――レギム達は殺されていた、らしい。それではあの最初に見た死体がそうなのだろうか。
服装や雰囲気的にはしっくりくるが、ではいったい誰が彼らを殺したのか。
「リー、時間をかけすぎだ、いい加減にしとけ。」
テントに近づく声。
このぞっとするような響きはあの、頭の男のものだ。
凛子は震える手で剣を構える。柄の部分にある赤い石がぎらっと光った。
テントの入り口にぴたっと身体をよせた男は、凛子の震える手をみて水色の瞳に一瞬怪訝そうな表情を浮かべた。
しかし、すぐに男の身体に緊張が走る。
なのに、なぜか男の口元には笑みが浮かんでいる。それは、凛子にあの殺戮を喜ぶ殺人者の目と同じものを彷彿とさせた。
「おい。」
首を切られた若い男と同じように入り口から頭の男が入ってきた。
違ったのははじめから、すでに剣を構えていたということだった。
人質になっていた男がひらめかせたナイフを頭の男は剣ではじいた。
「うっ」
人質になっていた男が反動で後ろに倒れた。水色の瞳が苦痛で歪んでいた。手から血が流れている。
頭の男は首から血を流して息絶えている男にちらりと視線を走らせて、それからぴたりと凛子に視線を合わせた。
「おめえかぁ、たくさん仲間を殺してくれたのは」
残忍な笑い顔、しゃべるときの赤い口の中の色が血を思い起こさせる。
凛子の顔をつうっと冷たい汗がつたって落ちた。
激しい動悸で頭が割れそうだった。
上から剣がふりおろされる。凛子は咄嗟にそれを流そうとして、目を見張る。
――だめだ、やられる。
力と勢いがすさまじく、流しきれない、と凛子は観念した。
きんっ、しかし、信じられないことに、凛子の目の前で、凛子の手にある優美な細い刀身は振り下ろされた剣を受け止めた。
振り下ろされた衝撃を受け止めた感覚が手首にないのは、おかしなことだった。
剣が自ら空中で固定されているかのようだ。
それと同時に凛子を殺そうとしていた男の眉間に皺がより、血の色をした口のなかから、本物の血が流れ出た。
口の端から流れる血は思っていたよりも黒く禍々しかった。
後ろから心臓にナイフを刺されて頭の男はそのままどうっと前のめりに倒れた。
男の後ろには、あの、人質の男が立っていた。
今まさに人を殺しながら、殺したことをまったく気にもとめない様子で男は凛子に歩み寄った。
「大丈夫か、結構力があるんだな」
事切れた男の剣を拾いあげると、水色の瞳に少し感嘆の色を浮かべて、男が初めて凛子に微笑んだ。
微笑むと水色の瞳は驚くほどの優しさをにじませた。
整った顔立ちなのに、笑うと親しみやすさを感じさせる。
人を殺した後にどうしてこのように笑えるのか。わからない。
この男は善人だろうか。それとも悪人だろうか。凛子は男の笑みをじっと見つめた。
男はその凛子の瞳に魅入られたように歩みをとめた。
その時、凛子は手にした剣に重さが戻ったのを感じて、剣をいぶかしげに見やる。
受け止めきれない、と思ったはずだ。
おかしなことだ、しかし、このような経験がないわけではない。
かわしきれないと思った相手の突きを、勝手に身体がよけて、相手を打つ、無理な姿勢からの攻撃が信じられない威力をもってぴたりと決まる、
そういう神がかり的なことは凛子の身には結構頻繁に起こることだった。
「天賦の才がある」彼女のその身体能力の特異さはそう言い表された。
よくあることなので、今回の剣の説明できない動きも凛子はそのまま流すことにした。
「その剣」
水色の瞳をした男は凛子の手にある剣をみて少し、驚いたようだった。
「あっ、あなたの剣だったのかな。ごめんなさい。森で拾って、武器になるものがなかったから」
凛子はあわてて、その男にあやまる。男はいや、と首をふって、今度は凛子を凝視した。
「おかしなことを言うね。私の剣じゃない。拾った、というけど、その剣は楔の剣だ。君の剣でしかありえない。」
静かな声だった。
「くさびってなんですか」
凛子は男の言い方から、くさびというのが何か特殊な意味合いを持っていることを感じ取った。
くさび、楔。なんかを留める金具みたいなもんだろうか。凛子は繋ぎ止めるというイメージを思い浮かべた。
外でがさっと音がした。
「話は後だ」
男は剣を慣れた調子で握りなおすと、テントの外をちらりとのぞくとそのまま外に走り出た。
短い悲鳴が聞こえて、そのまま、音がしなくなる。
凛子はしばらく目をつむり、それから静かに目をあけるとテント入り口から外を見る。
「これで最後かな」
男が水色の瞳でこっちをみて、穏やかな微笑を浮かべた。
ふりむきながら、剣を払う動作は優雅とも言えるものだった。
この人、強い。
鮮やかな切り口だった。
あの背の高い、男が仰向けに転がって、息絶えていた。
心臓が一突きされている。
池から水がさらさらと流れ出していて、その向うに見える光の反射する緑の道が美しい。
そして、その男の眼差しの穏やかさが凛子には恐ろしかった。
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