4. 残忍な殺人者と紐でぐるぐるまきの人質と選択をせまられた少女 (凛子視点)
時折木々の上の方で鳥が飛び立つ音が聞こえるぐらいで、森はいっそ平穏なくらい静かだった。
凛子は警戒しながら歩を進めていた。
鞄の中には数学の教科書とノートの他にキャラメルやらチョコレートやらが入っている。
ペットボトルには半分くらい水が残っていた。
――おかし、持っててよかったな。
キャラメルを口に含みながら、凛子は少々悲観的な気持ちになっていた。
――お腹すいたな。こんなんじゃ殺されなくても、餓死するかもしれない。ほんとなら、夕御飯を食べてた頃なのに。
凛子はあたりを見渡して、溜め息をついた。そこには食べられそうなものは何もなかった。
せめて弓とかもってたら鳥とかを落として食べれたかもしんないのに。
――最悪こんなのでも食べるしかないか。
凛子は木の幹についている巻貝の形をしたカタツムリのような虫を少々いじましい目で見やった。
凛子の脳裏をフランス料理のメニューがよぎる。エスカルゴのブルゴーニュ風は好きだ、あれはおいしい。
バターなしで食べれるかな、と凛子は、そのカタツムリを5、6個ポケットに入れた。そのとたん、
「レギム達帰ってこねえな。」
背筋が寒くなるほど冷たいものを含んだ声だった。
日本語ではない。それは分かった。でも、意味がわかる。なぜ、と考える暇はなかった。
目の前に小さな池があり、そこから細い川が流れ出していた。
さらさらと水の流れる音がしている。澄んだ水だった。池に水が湧いているのだろう。ところどころ水面がコポコポと盛り上がっている。
池の横は木の生えていない平地だった。そこに3つ同じような白っぽいテントが張ってある。
馬が6、7頭木につながれているのが見える。テント越しに見える薄い緑の曲線は道だろうか。
あそこから森をぬけることができるかもしれない。
エスカルゴに注意を奪われて、警戒を怠っている場合ではなかった。
ぴんと神経を張り詰めさせて、凛子は音をたてないように少し大きめの木の幹の後ろに身を潜める。
凛子がそっと確認すると、油断なく岩に腰掛けた40代くらいのがたいのいい色の黒い男がいた。
とがった顎、そして表情の乏しいぎらついた目、髭をはやしている。
そして地面に腰掛けた男が2人。
1人は若く、おそらく20代にいってないようだ。もう1人は岩に腰掛けた男よりやや若い位か。
3人とも腕に幾何学模様のような刺青が入っている。服装はあの死体達がきていた服装によく似ていた。そして全身の雰囲気も。
凛子はぞっとする気持ちを抑え切れなかった。明らかに日本人ではない。
そして、いままで、みてきた人間とは違う。その目の表情の乏しさが恐ろしい。
平気で人を殺せる人間の持つ目だった。
――今、動いちゃ駄目だ。
凛子は逃げ出したい衝動を剣を握りなおすことで抑える。
――みつかったら、3対1で勝ち目がない。間違いなく殺される。
それだけならいい。凛子は女だ。何をされるかわかったものではない。
凛子の頭の中を破廉恥な想像がよぎった。
――なんてことだ、ファーストキスも初恋もまだの私に、なんていう悲劇だ。
あの3体の死体はこいつらの仕業だろうか。
「レギムのことだ、途中で薬草つみにきた女でも見つけて襲ってよろしくやってんじゃないですか。この前みてえによ。」
地面にすわった背の高い男が下卑た笑いを浮かべて、岩に座った男に答える。
その後、自分の横にいる若い男を少し薄気味悪いような目で見た。
「リー、お前、そこの人質と一緒にいた女嬲り殺しにしただろ、レギムの奴、残念そうにしてやがったからな。
若い女は金になるからできるだけ殺さないようにしろよ。」
――いわんこっちゃない。下衆の集まりだ。
破廉恥な想像があたっても嬉しくもなんともない。
凛子は恐怖よりも生理的な嫌悪感に顔をしかめた。
剣を持つ手の震えがとまっている。あの、死体が目の前にあったことは幸いだったのかもしれない。
人間を信用してのこのこと顔を出していたら、と考えると背筋が寒くなる。
凛子は剣を強く握って、頭をフル回転させた。
――おそらく、あの岩に座ってるのが一番立場が上の人間。
背の高い男がその次の立場だろう。
リーと呼ばれたあの若い奴はたぶんあの背の高い男よりも地位は下。
そして、リーは女を嬲り殺しにするような性格をしている。
レギム、というのは女好きで、なんらかの用事で出かけていてここにはいない。
「レギム達」ってことは、レギムは複数で行動しているはずだ。
岩の上の男は少し黙って考えていたようだが、すっと立ち上がった。
「ひょっとすると、憲兵に見つかったのかもしれねえ。ここが知れると面倒だ。ずらかろう」
地面にいた背の高いほうの男が、ちょっとあわてたような様子で立ち上がる。
「やっ、ちと早すぎやしませんか。」
それから横の男に顎をふって命令した。
「リー、お前ちょっといってレギム達がいねえか、みてこい。」
それに対して、リーと呼ばれた男は少し背の高い男を薄目でみたが、文句を言わずに立ち上がると凛子のほうに歩いてくる。
――やばい。
額にちりちりするような緊張が走ったが、幸いにも男は凛子には気づかずに森の奥へと歩いていった。
凛子が歩いてきた方向だ。
「リーが戻ってきたら、とりあえず出発だ。」
頭であろう男が一番奥のテントに早足で入っていった。
背の高い男がその後姿に声をかける。
「人質はどうします。」
「リーが戻ってきたら始末させろ。」
躊躇のない返事だった。背の高い男はひゃひゃと下卑た声で笑うと
「リーの奴は喜びやがるでしょうがね。」といって続いて一番奥のテントに入っていった。
泉から流れる水がさらさらと音をたてている。
凛子は我にかえって、首をふった。
――どうしたらいい。
今なら逃げられる。
とりあえず、向こう側に回ってあの道を下ればいいのだ。
凛子は池の向こうにみえる光のこぼれる緑の道をみた。
――でも、人質を殺すといっていた。
凛子は自らの手の中の剣を見た。
――その人質が善人かどうかもわからない。しかも、助けられずに私が殺される可能性も高い。
誰か助けを呼んでくるのが現実的な判断というものだ。
自分に言い聞かせる。
なのに、凛子はどうしてもその場から動けなかった。
――私は武器をもっている。誰かをよんでくるにしたって、こんな、どこともわからない場所でいったい誰を呼んでくるっていうのか。
私がここで、助けなければ、確実に殺されるのだろう。
ここで、その人間を見殺しにするかどうかでこの先の自分の人生の何かが変わってしまうという予感が凛子にはあった。
ずっと、目の前で助けられるかもしれない人間を見捨てたという負い目をかかえたまま、生きていけるだろうか。
凛子は自分の馬鹿さかげんに自嘲めいた泣き笑いを浮かべた。
――怖い、怖いのに。自分の身を守れるかどうかもわからないのに。神様、あんまりです。
凛子はその存在を信じてもいない神に恨み言を吐いた。
ありえない。こうやって、こんなとこで死ぬかもしれないなんて。
凛子は息をはくと、覚悟を決めて、一番手近にあるテントの中に静かに入った。
中は案外広い。しかし、そこに人質の姿はなかった。
――違う。もうひとつ向こうのテントだろうか。それともあの2人が入っていった奥のテントか。
凛子はそのままそこを出ようと思った。
しかし、無造作においてある衣類と食物らしきものを見て、何個かのパンと干した肉のようなものがはいった紙袋を背中の鞄に突っ込んだ。
服を手に取ると凛子はテントの入り口から外を伺う。
誰もいない。
凛子はそっとテントの外に出て、最初にいた木の後ろに身を潜めた。
手早くセーラー服を脱いで、鞄に詰めると、汚れた汗臭い衣類に着替える。
凛子の身長が結構あるせいか、なんとか普通に着ることができた。
――毛じらみとか、白癬菌とかついてたらどうしよう。
こんな、切迫した状況下では呑気な、しかし切実な感想をもらして、凛子はもう一度テントの方を見る。
森の奥と一番奥のテントから誰も出てこないのを確認すると、剣を握り締めてそろそろと次のテントに近づく。
そしてそのまま、意を決して入り口から奥に滑り込んだ。
うすぐらいテントの中には、樽が2、3個。
そして、凛子が身につけたものとはあきらかに種類の違う、高価そうな服を身に着けている体格のいい若い男が、
紐で手首と足首そして身体中に紐をぐるぐるとまかれて転がっていた。
口にも布がいれられて上から紐で頭の後ろでくくられている。
――ビンゴ
凛子はそっと男に近づいた。
鍛えられた身体のそこかしこに傷がある。整った顔もかすり傷がついている。
濃い茶色の髪に水色の目をしていた。
そして、その目は凛子を睨み付けていた。
やっぱり、日本人じゃない。凛子はテントの入り口に気を配りながらそっとその男に近づいた。
剣を男の顔に近づけると、男の目に敵意がにじんだ。
「大丈夫です。」
凛子は無理やりに笑顔をつくって、慎重に紐を剣の切っ先で切った。
日本語でしゃべっているつもりなのに、声は異国の言葉に変換されて、響くのが、奇妙だった。
男の口のなかから布を引っ張りだす。布には血と唾液がついていた。
「何者だ。」
掠れた声で男が凛子に問いかける。
「あなたを殺すといってた。逃げましょう。」
凛子はその人質の顔をじっと見つめた。
この人間が凛子を殺すということだってありえる話だった。
ここは日本ではない、おそらく、だから、凛子は誰も信用すべきではない。
それだけは確かなことだった。
だからこそ、この人質を助けなければと思う自分の甘さが苦々しかった。
男はいぶかしげな顔をしたが、凛子が自分を助けるつもりだということを理解したようだった。
「わかった。早く紐を切ってくれ。」
異常な物分りの良さは事態の深刻さと比例している。
凛子がその男の手首の紐を切り、背中の紐に手をかけた瞬間、テントの外から声が聞こえた。
「頭、レギム達が殺されてた。誰かいるぜ。」
凛子の顔色が蒼白になった。恐れていたことが現実になりつつあった。
誰かがこの人質の男を殺しに、やってくるだろう。
「早く残りの紐を切れ。」
水色の瞳にいらだちを浮かべ、男がじれたように凛子をせかす。
「リー、やばい。ずらかろう。お前、人質を始末して来い。楽しむのは程々にして、早めにきりあげろよ。」
もうすでに片付けはじめているのだろう、ばさばさと何かをたたむような音と、あの背の高い下卑た笑い方をする男の声がした。
それに対して、若い男が人を嬲り殺すという行為が楽しくて仕方がないというような声を返す。
「いいじゃねぇか。楽しませてくれよ。」
凛子は嫌悪感で口元をゆがめた。
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