3. 薄暗い森と惨殺死体と血塗られた剣 (凛子視点)
凛子が目を開けるとそこはみたこともない森の中だった。
木々はそんなに密集しているわけでもなさそうだが、森の中に入る陽光はまばらだった。
涼しいけれど、寒くはない。空気は湿っている。
地面にうつ伏せになっていた状態から、手のひらをゆっくり地面を押しつけて起き上がるとやわらかい落ち葉が何枚か手について、
そして、つんと鼻をつく臭いがした。
――変な臭いがする。たんぱく質の腐った臭い。山の中で前にかいだことがある鹿の死体の臭いに似てる。
――痛ぅ、まだ少し頭が痛い。
凛子は頭をふって起きあがると周りを見渡してみる。
――うわっ。
凛子は口を押さえて2、3歩後ずさった。ひどい吐き気がした。
黒いごつごつした木の肌に髪があたってそのまま、ずるずると座り込む。
凛子の目の前の地面にある程度の間隔をおいて3体の人間が横たわっていた。
鹿の死体に似た臭いを発生させている原因は明らかにこれだ。
全部成人の男性のものだった。
だが、髪の色は黒や濃い茶色や薄い茶色とばらばらで明らかに日本人ではない。
全員茶色っぽいごわごわした素材でできたズボンのようなものとシャツのようなものを身につけている。
日本でみかけるものとは違う。
そして、白く濁る目、どす黒く染まった地面、それから、なまなましく口をあけた刃物で切られたような傷口。
明らかに全員死んでいる。しかも、
――誰かに殺されたんだ。
自分の心臓がどくどくと音をたてているのが分かった。
死体のあるところから見えないように木陰に回って、凛子の足は固まったように動かない。
――どっかに殺した「奴」もしくは「奴ら」がいるはずだ。しかもなんらかの武器をもって。
凛子はともすれば、恐怖に叫びだしそうになる衝動を抑えながら考えた。疑問は山程ある。
――ここはどこなのか。なぜ私がここにいるのか。誰が何のためにあの人々を殺したのか。
そして
――私は帰れるのか。わからない。何もわからない。
怖い、と泣いてもおかしくない状況だろう。実際、気を抜いたらそのまま気弱になって駄目になってしまいそうだった。ぐるぐると思考が回る。
――でもそれでは。
凛子は、恨めしげに目をうつろに見開いた死体をじっと見た。
――死ぬ。あんな風に。
凛子は、一度静かに深く息を吐いた。白いセーラー服の肩先にもつかず、黒い髪がさらりとゆれた。
――嫌だ。こんな知り合いの誰もいない、どこかも分からないようなところで、誰にも知られず、死ぬなんて。
呑気で陽気な母親の顔を思い浮かべる。物静かで優しい父の顔も。
そして彩加のいたずらっぽい大きな瞳。ちょっと怒ったような勇冶の表情、心配しているだろう、約束していたのに。
――死ぬのは嫌だ。漫然と殺されるわけにはいかない。
――帰りたい。
凛子はがくがくと震える足に手を添えた。
勇冶に誘われて始めた空手も剣道も中学から始めた弓道も、指導する先生や大人達はみんな口をそろえてこういった。
「すごい才能です」と。
実際、技術で誰かに負けたと思ったことは一度もない。上達するのは楽しかった。
だから、知ってる、このまま手の力をいれたら、離さないままだったら、相手が死ぬっていうそんな場面は何度もあった。
人間が実は脆くて、簡単に殺すことができるってこともわかってる。
でも、怖い。こんな風に殺したり、殺されたりする場面なんて想定したことは生まれてから一度もなかった。
――殺したり
凛子はふと自分の手を見る。殺してしまうのかもしれない。相手が殺そうとしてやってきたら私は相手を殺す。
――殺せるだろうか
逡巡する凛子に答えるものは、誰もいなかった。
――考えてる暇はない。
首をふって、凛子はごつごつした木の幹に手をやるとそのまま、死体のあるほうへ身体を捻った。
何か情報を得るために。ゆっくりと周りを見渡す。さっきみた死体はそのままそこにある。
凛子はさっきよりはずいぶん冷静にその死体を見ることができた。人相が悪い。
凛子は死体の表情をみて、唸った。
――顔で人のことを判断しちゃいけないけど。
キラッと光るものが目に入って凛子は下をみた。ちょうど凛子がはじめにうつ伏せで寝ていた手の先にあたる場所だ。
落ち葉に半ば埋もれるように一振りの華奢な剣が落ちていた。刀身がべっとりと赤黒く染まっている。
そして、その剣の横には茶色い学生鞄がおちている。凛子は複雑な気持ちで学生鞄を見つめた。
学生鞄といい凛子の着ているセーラー服といいこの異常な事態と全くなじまない。
だから、これは夢ではないのだろう。
現実を受け入れる覚悟を決めて、剣に手を伸ばす。
――軽い。
思いのほか持ちやすい。凛子はほっとして、剣を一振りしてみる。
竹刀のようにはいかないけど、これなら慣れればなんとか。
この赤黒い血があの死体のもので、これで殺したのかもしれないということは重々分かっていたけれど、正直ありがたかった。
丸腰で殺人犯と出くわしたのでは、殺されないように足掻こうといったって無理がある。
鞄をひきよせると中からハンカチを取り出す。
こびりついて取れないんじゃないかと思った血の跡はハンカチをすべらせると跡形もなく落ちた。
鏡のように美しい剣だった。
すごくよく切れそう、と物騒な感想を抱いて凛子はしげしげと剣を見やる。
剣の柄の部分には赤い綺麗な石がはめこまれていた。
石にからみつくように銀色の蛇が配置されている。鞘はどこかにいったのか、見当たらない。
素人目にも高価そうな剣なのに、なぜ置いていったのか。それとも、この死体のうちの誰かのものなのか。
とりあえずありがたく使わせてもらうことにして、凛子は鞄を背中に背負った。
剣を右手にもってもう一度死体に目をやった。
――猫の死体なら埋められるけど、人の死体、しかも複数はとても埋められそうにない。
だいたい私の命だってどうなるかわかんないし。そういうわけで、このまま野ざらしですみません。
いつも何か動物の死体を埋めた後にそうするように、凛子は心の中でお経を唱えた。
凛子の家は日本人で一番信者が多いと思われる仏教徒である。
この死体が生きてた時信じてた神様とはおそらく違う神様へのお祈りで、
自分の気休めでしかないことも分かっていたけれど、凛子は成仏してください、と祈った。
神様なんて信じてないけれど。
――そういえば、あの黒い猫はどこにいったんだろう。
凛子はお経を唱え終わるとゆっくりと周りに目をやりながら森を歩きだす。
「お前に私の祝福を」黒猫の赤い目をのぞいた時にひびいた声を思い出した。
――やさしい声だったな。
猫がしゃべるわけがない。あそこからもうすでにおかしかったのだ。
凛子が、この異常事態の始まりがあれであることに思い至ってもこの殺伐とした状況の何が変わるわけでもなかった。
祝福の結果がこれならば、どう考えても祝福じゃなくて呪いではないだろうか。
右手にもった剣の刃先の剣呑な輝きに、凛子は自分が濁った目をして落ち葉の上に横たわる姿をまざまざと思い浮かべた。
あの猫を抱き上げたのは自分だ。
ならば、この事態は自分で招いたことということになるのだろうか。
「死にたくないなら、一人でなんとかやるしかない。」
凛子が低く呟くと、剣に埋め込まれた赤い石が冷たく輝いた。かすかな意識がゆらめく。
――殺させはしない。おまえは楔。
凛子は一人ではなかった。
そのことに凛子が気づくのはまだ先の話になる。
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