47. 残された少年と命の価値とさまよう心(ザッハ視点)


灰色の壁。

西日が翳っていく。

狭くてみすぼらしい部屋には

生活に必要なもの以外はなにもなかった。

簡素なベッドはひとつだけ。

ベッドの横におかれた木製の古ぼけた椅子には

10歳くらいの少年がぽつりと座っている。

――暗くなってきた。そろそろ明かり、をつけなくちゃ。

椅子に座っていた少年――ザッハはベッドの横に置いた椅子から立ち上がると蝋燭に火を灯した。

淡い蝋燭の光がベッドに横たわったザッハの母親――ラティスを照らしだす。

ザッハの水色の瞳が暗く沈んだ。

やつれていても

母はとても綺麗な人だ、とザッハは思う。

汗をかいたラティスの額には淡い金色の髪が纏わりつき。

熱のせいで頬は薔薇色にも見えた。

ラティスは弱々しい呼吸を繰り返す。

その息はかぼそく、時折、ふっと息がとまりかける。

焦燥感を抑えきれずにザッハは母親に縋りついた。

毛布越しに抱きしめた母の体はあまりにも頼りなくて。

ザッハの水色の瞳から涙が溢れた。

「い……かないで。母さん。僕をおいていかないで。」

震える唇でやっとそれだけ呟く。

きっと無理なのだと。きっと母はこのまま自分をおいていってしまうのだと。

わかっていた。

ザッハに父親はいない。

亡くなった、とラティスから聞いている。

お腹の中にザッハを宿したまま、ラティスは1人でこの町に住み着いたという。

ラティスは繕い物や近所の店屋の下働きをして得た僅かなお金でザッハをこの年になるまで育ててくれた。

ラティスが病に倒れてから1月。

もちろん余分な蓄えなどあるはずもなく。

ザッハは近所の人達に頭を下げて何度かお金を貸してもらった。

それでも

パンとミルクを買うのが精一杯で、栄養のある卵や肉などは買うことができない。

ましてや、ラティスを医者に見せるお金などあるはずもなかった。

「……ザッハ。」

ラティスが痩せた白い手首を持ち上げてそっとザッハの頬を撫でた。

ザッハはゆっくりと頭を上げる。

涙で濡れたザッハの頬を拭ってくれるやさしい手。

自分とよく似たラティスの水色の瞳。

このまま時間がとまればいいのに、と、ザッハは思う。

母を失ってしまう明日など、永遠にこなければいい。

「手紙をだしたの。もう、あれから10年も経つのだもの。

きっと、大丈夫だと思うの。私の命を賭けて、お願いします、とお父様に。

あなたのおじい様にお願いしたから。」

ラティスはザッハの瞳をじっと見つめて、

それから堪えきれないようにその空色の瞳から涙をこぼした。

「生きて。そして、幸せになって。」

それが、ラティスの最後の言葉だった。

そのまま目を閉じて、最後に一度だけ小さく息をして、それきりラティスは呼吸をしなくなった。

貧しい者には墓などつくれない。

ラティスの亡骸は共同墓地に埋葬されることになった。

ラティスが死んだ次の日は細かい雨がずっと降っていた。

ザッハは夕暮れ近い薄暗い墓地にひとり立ち尽くしていた。

ザッハの細い腕を屈強な男の腕がぶしつけに掴んだ。

「俺と一緒にくるんだ。借りた金は俺が肩代わりして払っておいてやったよ。

返せるあてなんてねえだろう。

身寄りのないがきに仕事を世話してやろうってんだ。

ありがたい話だろう。」

男の台詞で近所の誰かが、

ザッハを売って金を手に入れたのだとわかった。

周囲を見ると、柄の悪い男達が3、4人いて自分を取り囲んでいた。

抵抗しても無駄なことをザッハは悟った。

身寄りのなくなった子供が売りとばされることはよくあることだ。

まさか、自分がそういうことになるとは思っていなかったが。

連れていかれたのは

出口がひとつしかない牢獄のような大きな建物だった。

その日から

何人かの少年と一緒に狭い部屋に押し込められて

来る日も来る日も剣とナイフを手に人を殺す訓練をさせられた。

失敗すれば容赦なく鞭で打ち据えられる。

鞭に打たれたくない一心でザッハは必死にナイフや剣の使い方を覚えた。

なぜこんな訓練をさせられているのかもわからないまま3ヶ月程がたった。

ある日ザッハが訓練を終えて部屋へ戻ると、

同室の少年達の姿がなかった。

部屋の中ほどまで足を踏み入れてザッハは眉をひそめた。

暗くて色は見えなかったけれど、ざらついた石の床は一面濡れていた。

錆びた鉄の香り。

ぬるぬるとした生温かい液体。

2、3歩さがって、ザッハはそのままその液体に足をとられて滑った。

床についた両手が血溜まりにつかる。

そこに死体はない。

死体はなかったけれど、そのおびただしい血の量が

今朝まで一緒にいた子供らがどうなったのかを語っていた。

「あいつらをどうした。」

まんじりともできないまま一夜を過ごして。

翌朝。

薄々わかってはいたけれど、

ただ確認するためだけに、

自分にナイフの使い方を教えているテオという男に尋ねた。

見慣れない象牙色の肌をした男は

イヴァース諸島出身なのだと、何かの拍子にザッハにしゃべったことがある。

「お客にはいろいろな趣味の方がいらっしゃるんだ。

今回は子供をいたぶりながら殺したいというご要望だった。」

ナイフをくるくると指先で回しながらテオが薄くザッハに笑いかけた。

「いつもできるようなことじゃない。

目ん玉がとびでるほど高くつく。

あいつらはそりゃあ高く売れたよ。

女のがきならまだ使い道はあるが、

あいつらは男で見目も悪い、その上、見所がなかった。」

一見優しげに見えるのに感情が欠落していることが透けて見える笑顔。

「お前は見所がある。せいぜい腕をみがくことだ。

そうすりゃ、しばらくは無事でいられるさ。」

あまりにもあっさりとテオはザッハに教えてくれた。

ザッハは自覚した。

ここでは。

自分の命には塵芥のごとき価値しかない。

この世界で

自分はどうしようもなくひとりだ。

ここは寒い。

暗くて冷たくて。途方もなく寒い。

「生きて。幸せになって。」

母の、ラティスの残した言葉を心の中で何度も繰り返した。

それだけがザッハを支えるたったひとつの光だった。

ザッハが男だったことと中途半端な年齢だったことが幸いしたのだろう。

体を売ることも人を殺すことなく1年が過ぎた。

盗みや使い走りのような仕事は与えられてしばしば外に出されたが、

いつも見張られていて逃げることは到底無理だった。

その頃には自分の連れてこられた場所が表向きは娼館で

裏で非合法な殺しや人攫いなどの仕事を請け負っている場所だということもわかってきた。

「お前を買いたいという奴がいる。」

テオから話を聞いた時、ザッハの脳裏に咄嗟に浮かんだのは。

自分がいったいどういう立場で売られるのか、という危惧と。

ここから抜け出せるということへの喜びだった。

目隠しして手を縛られた状態で馬車に乗せられながら

買った相手を殺してでも逃げようと腹を決めた。

そうすれば、自分は自由になれる。

しばらく馬車に揺られた後。

誰かがザッハの目隠しを外し、縛っていた紐を解いた。

はらりと目を覆っていた黒い布が取り払われた。

目の前に現れたのは白いものの混じり始めた黒髪と青い目をした神経質そうな初老の男だった。

ずいぶんひ弱そうな男だ。

これなら逃げ出せそうだ、とザッハは頭の中で算段した。

紐で縛られた跡も生々しいザッハの腕と、

冷めたザッハの視線を、

交互に眺めた後、

男の顔が痛ましいものを見たように歪んだ。

「私の名はエスタ。あなたのおじい様にあたる方にお使えしております。」

エスタと名乗った男は、ザッハの手のひらを握って

狭い馬車の中で膝を折った。

「お迎えにあがるのが遅くなって申し訳ありません。ザッハ様。

あなたのおじい様はずっとあなたを探していらっしゃいました。

やっとお迎えにあがることができました。

ああ。あなたのその目。」

エスタがザッハの水色の瞳を覗き込むようにして、呟いた。

「クルト様やラティス様と全く同じ目をしていらっしゃる。」

――ラティス。

ザッハは母の名前を口にした目の前の男を呆然と見つめた。

「母さんを知っているのか。」

エスタがうっすらと微笑んだ。

「はい。ラティス様がまだ可愛らしい赤ん坊でいらした時からよく存じております。」

母は死ぬ間際にザッハの祖父に連絡したと言っていた。

でも、売られた自分をわざわざ探してくれていたなど。

そして、やっと見つけ出したなどと。

そんな夢のような話があるだろうか、とザッハ思った。

到底信じられる話ではなかった。

半信半疑のまま、

何回か休憩をとって3日程かけて着いたのは

ザッハがいままで見たこともないような立派な城だった。

「クルト様。ザッハ様をお連れいたしました。」

エスタに促されて、少し気後れしながら部屋に入る。

ザッハの目の前には重厚な木製の机があった。

そして、その向こうに老人が1人たっていた。

ラティスの、母と同じ

懐かしい水色の瞳を見た瞬間。

それが祖父なのだと、わかった。

ザッハの息が詰まった。

愛されたい。

誰かに必要とされたい、とザッハの心が悲鳴をあげた。

ザッハはまだ11歳の少年に過ぎなかった。

一度流れ出てしまえばその感情はあまりにも大きかった。

ザッハは一歩足を踏み出そうとして、祖父の表情を見て、足をとめた。

母とそっくりな祖父の水色の瞳に激しい驚愕が浮かんでいた。

「ダ、ロス様。」

ザッハを凝視したまま祖父の口が小さく動いた。

祖父の皺の刻まれた端正な顔が歪んだ。

驚愕の表情はしだいに嫌悪の表情へと変わっていく。

「ここまで似ているなどと。ダロス様、あなたか。あなたなのか。」

ザッハを見つめたまま、机に両手をついて体を支えるクルトの声は震えていた。

祖父の表情に不安を募らせながらもザッハはただ祖父の顔を見つめていた。

その水色の瞳を。

――ダロス。

ダロスの名はザッハにも聞き覚えがあった。

ガヴァサイルの最後の王にして、非道の簒奪者。

民衆の間でダロスの名は嫌悪と侮蔑の中で語られる。

ダロスは自分の父である王と自分よりも王位継承の順序が上である兄の王子達を殺して

自らを王と名乗ったのだと。

そしてダロスが王を名乗ったその日から白き暁の魔物は王宮から忽然と姿を消したのだと。

きっと殺された2人の王子のうちのどちらかが次の白き暁の魔物の楔で、

だから、ダロスは楔にはなれなかったのだと。

ダロスのせいで

ガヴァサイルから魔物の加護が失われたのだと。

「ザッハ。お前は汚らわしい簒奪者ダロスと私の娘ラティスの間にできた子供だ。

調べるまでもない。おまえの顔はあの男に生き写しだ。

お前を私の孫だとは認めない。

だが、王家の直系の血をひくお前が白き魔物の楔となる可能性は高い。

手筈は整えてある。

お前は私の養子として迎え入れよう。

だが、そのおぞましい顔を私に見せるな。」

苦渋に満ちた表情でそれだけ告げるとそれきりクルトはザッハを一瞥もせずに背を向けた。

呆然としたままザッハはそのクルトの背中を見つめた。

簒奪者ダロスの子。

自分が。

では、母は、ラティスは王と結婚していたとでもいうのだろうか。

けれど、こんな立派な城に住んでいるんだから、

王様と結婚したとしてもおかしくないのかもしれない。

自分が王の血をひいている。

ザッハは混乱したまま、思考をめぐらせた。

強大な力を持つという白き魔物。

それを意のままにすることができるという楔。

そんなものはザッハにとって遠い物語の中の話でしかない。

自分が王の血をひいていて白き魔物の楔になるかもしれない、なんて。

急にそんなことをいいだされてもまるで実感などなかった。

そんなことはありえないとしか思えなかった。

それより。

そんなことより、とザッハは自分を拒絶した祖父の背中を見つめたまま唇を噛んだ。

どうしても

母親と、ラティスと同じ水色の瞳をもった祖父に思慕の念を抱かずにいられなかった。

温かな抱擁が、それが無理なのであればせめて温かな言葉が欲しいと思った。

けれど、ザッハにはわかった。

祖父は明確に自分を拒絶している。

ザッハの心は行き場を失くした。


 目次   BACK  TOP  NEXT

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送