42. なかなおり推奨と威嚇音と棄権のすすめ(凛子視点)


夕暮れの森に強い風が吹いて木々の葉がざわめく。

葉擦れの音は波の音に似ている。

俯いたまま黙って歩いていた凛子は

視線を感じてふと顔をあげた。

「ずっと黙っているね。魔物のことが気がかりかい。」

からかうように聞かれる。

少し前を歩いていたザッハが立ち止まって凛子を見つめていた。

「いえ、そういうわけじゃ。」

凛子は咄嗟に否定して、ザッハに笑いかけようとして、失敗した。

脳裏で繰り返し再生される

揺れる赤い瞳と表情を隠すように俯いたリュクセイルの傷ついた顔。

凛子は息を吐いた。

剣の柄をそっと手でなぞる。

あれきり、リュクセイルからの反応はない。

「そう、ですね。ザッハを殺そうとしたことは、本当に許せない。

 ただ、あんな顔みたの初めてだったから。」

凛子は困った顔のまま笑った。

凛子の申し訳なさそうな顔に気づいたように、

ザッハは軽く微笑んだ。

「私のことは気にしなくていい。大丈夫。きっとすぐに仲直りできるよ。」

凛子は思わずまじまじとザッハを見る。

自分を殺そうとしたことを気にしなくていい、とは。

さらに仲直りを推奨するとは。

ザッハって器が大きいのか、それとも自分の命に欠片も執着がないのか。

――たぶん、両方なんだろう。

「君を独占したくて、私を殺そうとして、君がとめるから、私を殺せない、なんて。

 魔物は本当に、君のことが好きなんだね。

 だから、君が望むなら、きっとすぐに仲直りできるよ。」

夕闇に、ザッハの顔は影になって見えない。

静かに告げるザッハの言葉に凛子は目を閉じた。

そう。

わかってる。

胸が痛いのは

リュクセイルの気持ちを

目の前につきつけられたから。

どうして、ザッハを簡単に殺そうとする残虐な魔物が

凛子の言葉であんなに傷ついて、

捨てられるのを恐れる子供のように揺らぐのか。

いつも、そう、リュクセイルに悪いことをしているような気がする。

凛子が目をあけると、凛子を見ているザッハの視線とぶつかった。

ザッハの右手がこっちに伸ばされる。

いつものように頭を撫でるつもりだろうか、と凛子はザッハを見上げる。

髪の毛に触れるか触れないかのところで、ふいにザッハは手を止めた。

掌を軽く握りしめたまま、しばらく躊躇うようにしてザッハはゆっくりと手を下した。

暗闇にまぎれて判然としないものの、

水色の瞳が切なげに細められた、ような気がした。

「楔と魔物の絆か。少し。」

そこで、ザッハは言葉を切った。逡巡するように視線が一度逸らされて、

それから真面目な顔で見つめられる。

覚えのある息苦しい雰囲気に凛子は思わず固まった。

またか。なぜ。

ザッハの顔がゆっくりと近づいてくる。

目を限界まで見開いた凛子に気づいたのか、ザッハが小さな笑う声がした。

「妬けるね。」

ふざけたような口調で呟くと、ザッハはそのままそっと凛子の額に口づけた。

何の真似だ。

額に唇をつけられても困る

かたかたかた。

その時、聞きなれない音が凛子の耳に入ってきた。

凛子は固まった。あわててザッハから離れておそるおそる剣を握る。

かたかたかたかたかた。

剣の姿になってから今まで、

全く無反応だったリュクセイルの剣が音をたてて小さく震えていた

剣の鍔鳴りは人が怒りのときに震えるのと同じリズムでかたかたと続いている。

――リュクセイル。

これは。イライラしている、ような気がする。

凛子は青くなった。

――私は嫉妬深い。できたら接吻してほしくない。他の者とは。

リュクセイルの言葉が脳裏をよぎった。ふざけた口調だったが、あれは本気だった。

だめだザッハ、配慮のなさは私とザッハの身の危険に直結する。

とりあえず、落ち着いて欲しい。

命を救った感謝の気持ちはおいしい食べ物をくれるとか、そういう形でかえしてくれればいい。

凛子の危惧をよそに、

やがて、音は小さくなって、とまった。

凛子は胸をなでおろして、恨めしげにザッハを見る。

――ザッハ。

「リンコ。明日の試合のことなんだけれど。」

剣の異変に気づいているのかいないのか。

真剣な顔で、ザッハが切り出した。

明日の試合。

凛子も真顔になってザッハを見つめる。

気をつけろ、というつもりだろうか。

明日の試合相手は

これまでの試合すべて相手を殺して勝ち上がってきた、という。

自分が明日死ぬかもしれない、なんて。

――ぞっとしないな。

「はい。明日の試合がどうかしたんですか。」

凛子の言葉にザッハが逡巡するように続けた。

「明日の試合に君が勝つ必要はない。

 君があたる相手は危険過ぎる。

 最終試合は私が審判を努めることになっている。

 さすがに、いまさら試合を取りやめることはできない。

 だから、試合がはじまったら、凛子、君はすぐに負けを宣言してほしい。

 今までの試合で君が強いことはもう十分証明されている。

 明日の試合で負けても君が私の護衛になることに反対する者はもういないだろう。

 目的は達成されている。だから、もう君が命を危険に晒す必要などない。」

思いがけないザッハの言葉に凛子はしばらく固まった。

ザッハの言葉を反芻する。

もう、戦う、必要がない。

本当にそんなことがあるのだろうか。

でも、もし、本当に戦わなくてもいいんだったら、本当に嬉しいけれど。

凛子は息をのみ、それからゆっくりとひとつ大きく息を吐いた。

全身から力が抜けていく。

凛子は自分が無意識のうちに

ひどく緊張していたことを思い知る。

「わかりました。私だって死にたくはありません。

 明日はもしかしたら殺されるかもしれないと思ってたんです。

 ザッハがそういってくれるんなら、明日の試合、速攻で棄権します。」

凛子は半信半疑ながらも、そう、ザッハに答えた。

いやいや、そう、戦わなくていいんなら、それに越したことはない。

終わった。

明日を待たずして、終わった。

これでもう殺すだの殺されるだのという物騒なことは終わりだ。

もう、殺すことも殺されることも心配しなくていい。

そのことに凛子は安堵する。

万歳。

「じゃあ、護衛として雇ってもらえるんですね。

 日本に帰る時まで、よろしくお願いします。」

笑顔でザッハの手を強く握った。

凛子の言葉に一瞬動きをとめたザッハに首を傾げる。

「そうだね。君が帰る、時まで。」

ザッハの言葉が苦しげに一度つまったような気がした。

けれど、そのままザッハは何を言うこともなく、そっと凛子の手を握り返した。

風がザッハの濃い茶色の髪を揺らした。

「すっかり暗くなってしまったね。」

いつもどおりの静かなザッハの声。

つないだ凛子の手をそのまま引くようにしてザッハが踵を返した。

気がつけば、森の中はすでに薄暗い。冷たい風が体を撫でていく。

夜の帳に包まれた暗い森。

しかし、凛子の心の中はいっそ鼻歌を歌いたいくらいに晴れやかだった。

明日の試合を心配しなくていい。これほど嬉しいことがあるだろうか。

――すべて世は、事もなし

凛子は足取りも軽く歩きだした。


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