41. 温かな腕と迂闊なインパラと天秤ばかり(凛子視点)


時折吹く風が水滴のついた凛子の身体から熱を奪っていく。

なめらかな水の感触。

抱きしめられている

背中だけ、温かい。

凛子の目の前で優美な白い手がひるがえった。

空気を切り裂く音。

そして

鋭利な刃物で切り取ったように木々がなぎ倒される。

ぽっかりとできた空間に、

裂かれた生木の青臭い香りが漂った。

「殺してやる。近づくな、私のものだ。」

凛子の耳元で聞こえるリュクセイルの低い声。

殺してやる、とは物騒な

とか

お前のものになった覚えはない

とか

とりあえず服を着させてはもらえないだろうか

とか

いう台詞が凛子の脳裏に浮かんで、消えた。

凛子は目の前の光景を呆然と眺めた。

無造作に人の腰あたりの高さで切り取られた木々の残骸。

なんて、

凄まじい力。

スッパリと二分割されたザッハの体を想像して凛子は蒼白になった。

目の端にザッハの姿を探す。

うずくまっているザッハの無事を確認して、

凛子はほっと息をついた。

ザッハの頬を赤い血がつたっている。

血。

リュクセイルはザッハを殺す気だ。

凛子を抱きしめる腕は優しい。

温かく優しい腕。

でも

これは

たやすく人を殺す、

人でない

生き物の腕。

黒い土の上でうずくまったまま静かにこちらを見つめるザッハの空色の瞳。

確かに逃げても無駄だろう、けど。

殺されそうな、この状況で、その落ちつき。

凛子は呆れる。

そして、苦笑した。

知ってた。

ザッハはあまり自分の命に執着していない。

だけど、

生き物たるもの、最後まで意地汚く自分の生命に執着すべきだ。

――そうでしょう。ザッハ

   そうでなければ、、ザッハの命に執着している、私こそ馬鹿みたいじゃないか。

「めぐりあうこと、こそが奇跡。私は幸せなんだ。」

一瞬、甘い響きがリュクセイルの言葉に混じった。

「苦しまないように一瞬で殺してやる。」

どこの悪役の台詞だ。

凛子は唖然とする。

凛子を拘束していたリュクセイルの腕が緩まった。

とっさに凛子は川底を蹴って岸に這い上がる。

水に体温を奪われて

もつれる足を必死で動かす。

ザッハに駆けよると

うずくまっているザッハを庇うように抱きとめた。

体から滴る水と黒い土が混ざった

泥が

凛子の足にまとわりつく。

「ザッハ。せめて、逃げるまねくらいしてほしい。」

凛子は安堵の溜息をついて、ザッハに囁いた。

凛子の頭の中にNHKの生き物地球紀行の一場面が浮かぶ。

迂闊な草食動物は真っ先に猛獣の餌食になる。

それが、自然界の厳しい掟だ。

うっかりと母親や群れからはぐれたインパラの子供。

隙をうかがっていたライオンの群れが子供のインパラの首に食らいつく。

声をたてることもなく倒れる幼いインパラのか細い体。

「かわいそうですが、こうやってインパラを食べなければ、ライオンも生きてはいけないのです。」

冷静なナレーションの声まで聞こえてきた。

だが、リュクセイル、このインパラは友達のインパラだ。

このインパラを食べられたら私は辛いんだ。

「殺すんじゃない。」

見上げたリュクセイルの無機質な白い肌。

表情はあまり変わらないのに

ひしひしと怒りがつたわってくる。

「その男から離れろ。リンコ。」

昼メロドラマで間男を夫に見つかった時の妻の気持ち、とはこのようなものだろうか。

なぜ、初恋もまだの自分がそんな気持ちを味わわねばならないのか。

凛子は困惑する。

だが。

ザッハが死ぬのは嫌だ。

それに。

「ザッハがいなかったら、泊まるところがない。」

衣食住は生活の基本だ。

体の下から聞こえたくぐもった笑い声に凛子は憮然とする。

どうして、そんなに、危機感がないんだ、ザッハ。

「泊まるところなど、私がなんとでもしてやる。心配するな。」

気分を害したようなリュクセイルの声がした。

冗談ではない。

略奪、強盗、人殺し。

犯罪行為に全く抵抗感のなさそうなリュクセイルが

どんな手段で住処を確保するというのか、考えるだに恐ろしい。

凛子は頭の上を見上げた。

綺麗に切り取られた何もない空間が口を開けている。

あんな風に切られたら、たぶん即死。

リュクセイルの言ったとおり

痛みもなく死ねるだろう。

――仕方がない。

凛子はリュクセイルを睨みつけた。

「ザッハを殺すというなら私も一緒に殺すといい。――――。」

リュクセイルの名は音にならない。

リュクセイルの燃えるような赤い瞳。

血の赤。

石榴の赤。

禍々しい狂気を孕んだ赤い色。

なのに、その瞳の中にかすかにゆれる光が見えた。

「その男のことが好き、なのか。」

おいていかれることを怖がる子供のような。

「誰のことも好きじゃないって何回いったらわかるんだ。だけど、――――。ザッハを殺したら、お前を許さない。

 恋じゃなくても、私はザッハが大切だ。ザッハを殺すというなら、私も一緒に殺せ。――――。」

凛子の下でザッハが小さく息を吐く音がした。

リュクセイルの赤い瞳が揺らめく。

リュクセイルはそのまま表情を隠すようにうつむいた。

それは、ひどく胸をうつ仕草だった。

「リンコ。お前は、ひどいな。」

うつむいたままのリュクセイルを黒い布が覆っていく。

「私の気持ちを測る、のか。」

空中にあらわれた剣がふいに力を失ったように落下する。

「私にお前が殺せるわけが、ないだろう。」

小さな囁きが空中で消えた。

かつん、と

剣が水際の石にぶつかって小さな音をたてた。

のろのろと凛子は起き上がった。

揺らめいたリュクセイルの赤い瞳。

胸が痛い。

傷つけた。

凛子は転がった剣に手を伸ばした。

柄に嵌め込まれた赤い石の端から水が零れた。

測る。

凛子は目を閉じた。

自分の命を盾にして、それでも、殺すのか、どうか。

そう。

確かに、測った。

リュクセイルの愛情を。

凛子は剣を拾った。

「ごめん。」

だけど。

いきなりザッハを殺そうとした

――お前が、悪い。

リュクセイルのほうが悪い、と思うのだが、

この後味の悪さは何なのだろう。

凛子は溜息をついてザッハを振り返った。

「ザッハ。とりあえず、無事でよかった。」

凛子の視線の先で、ザッハは顔を横にそむけたまま動かない。

ザッハの顔が赤い。

「助かったよ。リンコ。ありがとう。

だけど、とりあえず、服をきたほうがいい。」

ザッハの言葉に、凛子は蒼白になり、それから真っ赤になった。

よろめいて、2、3歩後ろに下がる。

川面を横切る風が素肌を撫でていった。

寒い。

全裸。

全裸だ。

まっぱだか、だ。

この場から逃げ出したい。

穴があったら入りたい。

穴がないなら掘ってでも入りたい。

唇をかんだまま凛子はザッハに聞いた。

「見ましたか。」

横を向いたままのザッハが口ごもった。

「いや。」

嘘だ。

今の言いよどんだ口調。

間違いなく見たに違いない。

「忘れてください。」

悄然と肩を落としながら凛子は頼んだ。

「わかった。忘れるよ。」

笑いを含んだ声で軽く流された。

やっぱり、見たんだ、な。

ひどい話だ。

凛子は川の傍の木にひっかけてあった服を手にとった。

乾いた服の感触が気持ちいい。

「大丈夫。忘れるから。」

ザッハの声は凛子を慰めるように優しく、そして、なぜか、切なく響いた。

気のせいだろうか、と凛子はザッハを見やる。

ザッハは既に立ち上がって、身支度を整えていた。

風がザッハの柔らかなこげ茶色の髪をゆらした。

振り返って凛子を見たザッハの落ち着いた水色の瞳に何か別の感情が混ざった気がした。

「そろそろ、いこうか。」

柔らかく微笑んだザッハはいつも通りのザッハだった。

「あの川べりに咲いてる。白い花。きれいですね。」

立ち去り際、あの白い花が目に入った。

「そうだね。きれいな花だ。だけど、あの木は別のことで有名なんだ。

あの木の根からとれた汁を剣の刃に塗ると、刃が黒く染まる。

その剣で人を刺せば、死に至ることもある猛毒だ。覚えておくといい。」

ザッハが微笑んだまま、親切に説明してくれる。ザッハに全く他意がないのが、とても怖い。

なんて、デンジャラスな木だ。

凛子は強張った表情のまま頷いた。

ザッハの後ろを追って歩きだす。

暮れかけた日の光が木々の隙間を薄暗く照らしていた。

日暮れ時は寂しさをつのらせる。

生き物のもつ温かさだけが孤独を和らげる。

ザッハがいるから寂しくはない。

だけど

冷たい水に浸かって背中に感じたリュクセイルの熱をふと思い出す。

魔物もひとりは寂しいと思うのだろうか。

赤い瞳に揺らめいた光。

「ごめん。リュクセイル。」

凛子はもう一度呟いた。


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