40. 残像と自覚と同じ病(ザッハ視点)
闘技場のどこにもリンコの姿がなかった。
おそらく、先に城へ帰ったのだろう。
他領からの賓客は街にある別邸で宿泊する。
夜にはザッハも別邸での晩餐会に出席しなければならない。
あまり軽々しく動くのもどうか、とは思うが、
最後の別れなら、少しくらいの我侭は許されるだろう。
ザッハは数人の騎士を連れて城の方向へと馬を走らせた。
城にほど近い森でザッハは足をとめた。
馬から降りて思案顔で川の傍に佇む男の姿があった。
「ザッハ様。」
その場で膝をつこうとしたレノアをザッハは手で止めた。
「いや、そのままでいい。リンコを見なかっただろうか。探しているんだが。」
レノアがザッハの言葉に、顔をあげた。
隊をまとめるような立場にあるとは思えない涼やかな外見をした男だ。
デロイトの片腕。腕は確かで、頭も切れるという話だった。
表情ひとつ変えぬものの、今の彼は若干戸惑っているようにも見えた。
「リンコでしたら、この川に沿ってに森の奥へ向かったようですが。」
感情の読みにくい細い目。
「レノア、君がここまでリンコを送ってきてくれたのか。」
「いいえ。そういうわけではないのですが。」
レノアは歯切れ悪く言葉を濁した。
「そうか。助かった。」
ザッハはそれ以上は敢えて聞かないことにした。
レノアがリンコとひと悶着あったらしいことはデロイトから聞いていた。
――それなのに、か。リンコ。君は人を誑かすことにかけては魔物なみに性質がわるい。
レノアと騎士達をその場に残して、ザッハは森へと足を踏み入れた。
木々の緑をすり抜けた、淡い日の光が薄暗い道を照らしている。
湿った黒い土の上に、薄く積もる枯葉を踏みしめて、奥へ進む。
リンコと初めて会ったのもこんな森の中だったな、と懐かしく思い出す。
足元で枯れた小枝が音をたてて折れた。
木々の向こうで声が聞こえた。
水浴び、か。
ずいぶん呑気なことだ。命が危ないかもしれない時に何をしているんだか。
くすり、とザッハは微笑んだ。
まあ、それもリンコらしい。
「ずいぶん探したよ。リンコ。こんなところにいたんだね。」
ついでに自分も一緒に水を浴びよう、とザッハは上着を脱いだ。
何の躊躇もなく顔の辺りに茂る木の枝を掻き分ける。
リンコが全身から水を滴らせてこちらを向いた。
半身を水に沈めたすんなりとした肢体。
予想外に白い肌と肩口にはりついた黒い髪。
そして。
ザッハは自分の目を疑った。
柔らかな胸のふくらみ。
「うわあ。」
咄嗟にリンコが叫び声をあげて、両手で胸を隠した。
しかし、既にザッハは見てしまった。
目に焼きついた、滑らかな曲線。
あれは少年の体ではない。
少女。
――少女。リンコが。
どうして、今まで気づかなかったのか。
ザッハは無言で白く乾いた木の幹に寄りかかると、片手で顔を覆った。
ひどいな、リンコ。
焦がれて、
離れたくなくて、
傍にいてほしくて。
君が傍にいるだけで心が満ちた。
胸が痛い。
欠けていた最後の一片が埋まる。
逃げろ。
そう言う、つもりだったのに。
ずっと、目を逸らしていたのに。
ここで、自覚させるのか。
ざわめいて、苦くて、そして甘い。
この胸をしめつける感情は。
恋だ。
ずっと。
最初から最後まで。
恋だった。
そう。
認めるしかない。
ザッハは顔を覆っていた手を離した。
ざらついた木肌を手のひらで押して体を起こす。
できない。
無理だ。
自分から手を離すことなんて。
こんなに、君のことが、好きなのに。
「水浴びを覗くなんて、しかも上半身は裸か。一緒に水浴びするつもりなんですか。
この国では、そういう風習でもあるんですか。男も女も裸のつきあいだ、とか。」
リンコは顔を赤くしたり青くしたりしながら川の岸ぎりぎりまで後ずさっている。
「なんて破廉恥な文化だ。そんな文化は断固拒否だ。」
呟く声が聞こえた。
どうやら、リンコはザッハが初めから女だと知っていると思っていたらしい。
――なぜ。
ザッハは困惑した。
――ああ。あれか。
接吻。リンコに思わず口付けた時のことを思い出して、ザッハの頬が微かに赤くなった。
模擬試合の最後の試合は領主自ら審査人をつとめる。そういうしきたりだ。
いざとなれば自分が割って入ってでも止める。
――必ず守るから。だから。どこにもいかないで。
――傍に、いて。
「誰がくるかわからないのに、こんなところで水浴びとは無用心だね。」
心の中でふきあれた嵐のような感情を微塵も表情にださないまま、ザッハは小さく笑った。
刹那、空気を切り裂く音がした。
ザッハは咄嗟に横によけた。
左頬に剣で切られたような痛みが走った。
横を見れば、今までザッハがいた辺りに鋭利な刃物で切り取られたかのような空間ができている。
「殺してやる。」
魔物の赤い瞳が剣呑に光った。
石の上に座っていた黒いドレスの少女。かつて会った少女の姿をした魔物。
少女の姿はいつのまにか青年の姿に変わっている。
澄んだ水の中に浸かってリンコを後ろから抱きしめていた。
「近寄るな、私のものだ。」
さらさらと水の音がする。
川面に木漏れ日が映る。
仄暗い緑の森。
人外の青年は思いつめた目をしていた。
禍々しくも美しい造作。
装飾のない黒い服、手首には銀色の蛇の形をしたバングル、金色の豪奢な髪、無機質な程に白い肌。
そして
燃えるような赤い瞳。
恋敵の魔物が、少女を抱いたまま、射抜くようにこちらを見ていた。
魔物の気持ちが痛いくらいにわかった。
彼女の全てが欲しい、と願ってしまったんだろう。
誰にも触らせたくない、と思ってしまったんだろう。
かわいそうに、と同情した。
わかるよ。
私も。
君と同じことを思っている。
ザッハはため息をついた。
恋を自覚するのは人生で二度目だ。
恋をしたのは楔。
恋敵は魔物。
――私にはつくづく運がない。
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