39. 二択と永遠と白い花(凛子視点)


黒い湿った土が剥きだしの道。

道の横の川にはさらさらと水が流れていた。

人の気配のしない森の奥。

木々の隙間からもれる日差しが柔らかくて、気持ちがいい。

ふいに、木の枝から鳥が飛び立つ音がして、凛子が見あげたその時。

黒い布が翻った。

とん、と。

ほとんど音を立てることもなく、黒い服をきた青年が凛子の横に降り立つ。

「リュクセイル。」

剣が人の姿になることにも、もう慣れた。

人間とはどんな状況にも慣れる生き物だ。

「昼間にも人の姿になれるんだね。そういえば初めてリュクセイルと会ったのは朝だったっけ。」

白いシーツの上。

朝の光の中。

縋るように凛子に手をのばした少女は息をのむほどに美しかった。

「力が戻ってきている。人の姿になることはもう造作ない。」

リュクセイルがくつりと笑った。

艶やかな金髪。

赤い獰猛な獣の目。

整った外見とそぐわない凶暴な赤い瞳が青年に凄みを与えていた。

「この姿なら、こうやってお前を抱きしめていられる。」

戯れるように抱きしめられる。

どうしてこの魔物は人の気持ちなどおかまいなしに破廉恥行為に及ぶのか、と凛子は遠い目をした。

「リュクセイル。」

凛子は文句を言おうとして、黙り込む。

凛子を見るリュクセイルの眼差しには胸が痛くなるような真摯なものが含まれている。

そんな目をするのは、反則だ。

そういう目をされると、まるで自分がリュクセイルに悪いことをしているような気分になる。

「まだ、私のことを好きではない。」

優しい目で尋ねられて、凛子はうなずいた。

「では、私以外の誰かを好きになったということは。」

赤い目が眇められる。

冷気の漂ってくるような視線に凛子は無言で、首を横にふった。

怖い。

好きになったなどといえば、相手は間違いなく殺される。

「それなら、いい。お前が誰とも恋をしていないというなら。今は一緒にいられるだけで。」

リュクセイルは呟くと寂しそうに微笑んだ。ずいぶん殊勝な態度に見える、が。

ちょっと、まて。

――もしや、自分には、この魔物と恋に落ちるか、一生誰とも恋に落ちないか、の二択しか残されていないのか。

重大な事実に気づいて、凛子は青くなった。

指をそっと絡められる。ひやりと冷たい熱を感じさせない手。

リュクセイルに手をひかれるようにして、歩き出す。

木々の陰になっている小さな滝の滝つぼ。

どうして、いつも水浴びをしている場所をリュクセイルが知っているのか。

問うまでもない。

剣の姿の時も周りの景色は見えている、ということだ。

そういえば。

デロイトとの試合。

凛子はリュクセイルがデロイトを殺そうとした時のことを思い出して、目を閉じた。

そう、見えてなければ、殺すことなんかできない。

凛子は己の迂闊さを呪った。

「水浴びをするなら女の姿のほうがいいか。」

川岸の石に腰掛けた青年の輪郭が揺らめいて少女の姿に変わった。

少女の白い肌が仄暗い森の中に浮かんで見えた。

金色の髪が黒いドレスにゆるく流れる。

穢れない少女。

その禍々しい血の色をした瞳さえなければ。

「水を浴びるから、お前はそこでおとなしく横をむいてろ。」

凛子は多少の不信感を込めてリュクセイルに告げた。

ついでにちらりと睨み付ける。

堪えきれないように肩を揺すって笑うとリュクセイルは素直に横を向いて視線をそらした。

凛子は岸辺に生えている低木に脱いだ服をひっかけると水に足を浸した。

疲れて熱をもった手足に冷たい水が心地良かった。

川底は深い緑色。

光を透かした緑色の宝石のようだ。

「見るなよ。リュクセイル。」

岸辺に向かって釘を刺す。

「見ないとも。」

横を向いたまま、くつくつとリュクセイルが笑った。

木洩れ日が静かに川面を照らす。

水の流れる音だけが辺りに響いていた。

川岸に群生する丸い葉っぱをつけた低木には白い花がたくさん咲いていて

風が時折その白い花を揺らす。

穢れのない白い花びらが

いくつも川面に落ちては静かに流れていく。

「美しいな。」

リュクセイルがぽつりと呟いた。

本当にきれいだった。

時が止まっているかのように。

胸がしめつけられるほど穏やかな時間。

「国は滅びる。花は枯れる。生あるものは全て死ぬ。永遠なんてない。」

淡々と喋っているのに、リュクセイルの声はとてもかなしそうに聞こえた。

「リュクセイル。」

思わず、凛子はリュクセイルの名を呼ぶ。

ふっとリュクセイルが凛子の方を向いた。

少女の血の色をした赤い瞳。

「でも、この一瞬の中にだけ。」

リュクセイルは切なそうに、微笑んだ。

その時。

背後で茂みをかきわける音がした。

「こんなところにいたんだね。ずいぶん探したよ。リンコ。」


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