38. 負け犬の遠吠えと少年ジャンプとロブスター(凛子視点)
他の試合はみんな終わった、みたいだ。
凛子は闘技場の中を見渡した。
広い闘技場には凛子は自分と試合相手と審査人しかいない。
闘技場をぐるりととり囲む高い石の壁。
逃がさない、といわんばかりだ、と思う。
優勝を決める一戦だけは明日の昼から行われる、と、さっき審査人から聞いた。
凛子が知らないことに向こうは驚いた顔をしていたが。
――驚いたのはこっちだ。
でも、正直よかったかもしれない。
凛子は息を吐いた。
あと2人は、きつい。
汗と一緒に体力がそぎ落とされていく。
男の輪郭がぶれる。
4人目。
握り締めた手の中の剣だけがひやりと冷たかった。
意識がすっと戻る。
打ち合うだけの力が残ってないから、相手の剣をひたすらよけることしかできない。
相手の剣の動きは見切れるのに、足がふらついて、何度かひやりとさせられた。
呼吸の音が耳に響く。
額から流れる汗が目に入って沁みた。
瞬いて、そのまま両目を見開く。
次の瞬間。
凛子は右足を地面で蹴って、
相手の男の喉元に向かって飛び込んだ。
汗ばんだ相手の首筋を片手で押さえ込んで、剣をさかさまに突きつける。
ぬるぬるとした汗の感触。
下から凛子を見上げる、血走った男の目。
「降参してください。さもなくば切ります。」
息を整えて、囁く。
凛子の声に男の顔が恐怖で引き攣る。
「きっ、切るな。わかった。」
「俺の負けだ。」
少しの間をおいて、審判人が宣言した。
「勝者、左。」
――終わった。
大きな歓声が観客席から聞こえる。
凛子は大きく息を吐いた。
できればこのまま地面に倒れこみたい。
ゆっくりと剣を男の首から離して、立ち上がる。
凛子の剣が首元から離れるなり男は後ずさった。
それから落ちていた剣を手に立ち上がると、憎憎しげに凛子を睨んだ。
「馬鹿にしやがって。」
凛子は振り返って男を見た。
「いいか。いい気になってられるのも今だけだ。お前は見てないだろう。
お前が明日戦う奴は、対戦者を全部殺して勝ちあがってる。
お前は明日切裂かれて、血まみれでのたうちまわって死ぬんだ。勝ったのは結局俺だ。」
濁った目。
歪んだ口元から発せられる悪意。
――これは。
凛子は男の意図とは全く別の意味で驚いていた。
――負け犬の遠吠え。
負け犬の遠吠えなんて、時代劇でしか聞いたことがない。
貴重な経験だけど、別にあんまり聞きたいものでもないな、と凛子は男から視線をそらした。
男に言われるまでもない。
今だって、本当は怖くてたまらない。
足元の砂は黄土色。
見渡せばあちらこちらに黒い染みがある。
血の跡。
直接手をくださなかっただけで、凛子は既に血だまりの中に立っている。
死にたくない。
そしてできるだけ殺したくない。
なのに、死はとても近い。
明日もこの手を汚さないままでいられるだろうか。
凛子は手のひらをじっと見つめて、目を閉じた。
――考えてもしかたない。
どうせ、明日になればわかる、のだ。
顔をあげて、きらびやかな一群の中にザッハの姿を探す。
ザッハの水色の瞳と目があった、ような気がした。
――ね、大丈夫だったでしょう。ザッハ。
こうしてみればザッハは遠い人だ。
身分の高い人。そして命をねらわれているような物騒な人。
――騎士になって、そばにいる。半年後、帰るときまで、だけど。
違う世界の遠い人。
けれど、心はつながっている。
そんな気がした。
離れていても心はつながっている、なんて。
まるで、少女漫画のようだ。知らないうちに大人への階段をのぼってる、のかもしれない。
――お前のためなら死んでやるぜ、親友。
くすり、と凛子は笑う。
それはジャンプ的感情だ、と訂正する人は誰もいなかった。
凛子の視線の先でザッハが椅子から立ち上がって身を翻した。
――領主の息子だというからにはいろいろと忙しいんだろう。
凛子は視線を一般の観客席に移した。
そして、ショックを受ける。
――あの貝みたいなのをはさんだサンドイッチみたいなやつの屋台なんてもう片付けにかかっている。
よく考えれば、あたりまえだ。
お祭りが終われば、屋台も終わりだ。
迂闊だった。
赤く色づいたロブスターみたいな海老の茹で上がった奴を小山に積んだ屋台。
ずっと行列ができていた。
あれはおいしいにちがいない。
試合中から目をつけていたのだ。
あれだけは絶対買う。
悠長にしている場合ではなかった。
凛子はまだ何か言おうとしている男に目をやることもなく、背中を向けた。
半ば駆け足で、闘技場の外へ出る。
観客席へは一度外に出ないと入れない。
不便だ。
なんて不便なつくりになってるんだ。
ものすごい勢いで凛子は石の階段を駆け上がる。
ぎりぎり、間に合った。
「すいません。ひとつください。」
凛子は数匹残ってるうち一番大きい奴を手にして差し出した。
宿泊先をただで確保できてよかった。
すくなくとも屋台で買い食いぐらいはできる。
凛子はいそいそと背中のかばんから袋を取り出した。
盗賊のテントでザッハが山分けしてくれたお金。
「あんた……。さっきまで戦ってた子だろう。」
凛子の顔と剣を見比べて、おじさんが驚いた顔をした。
「ええ。」
「そうか。」
おじさんが複雑な表情で黙り込む。
「なんだって。」
「戦ってた子供がいるって。」
周りに人垣ができた。じろじろと見られる。
凛子は周りを見渡して、たじろいだ。
「あんた、明日がんばんなよ。」
おばさんが心配そうに、凛子に声をかけてきた。
「ええ、がんばります。」
そういうことしか、できない。
気の毒そうな顔に、なんていっていいものやら返答に困る。
「もう店仕舞いだ。お代はいいよ。もっていきな。」
おじさんが店先に残っていたロブスターを何匹かぽんぽんと袋の中にいれてくれた。
凛子は眉をひそめた。
おばさんはちょっと涙ぐんでいる。
「あんたみたいに可愛い子が。」
縁起でもない。
凛子は困惑する。
そのいいかただと、まるで。
――明日私が死ぬみたいじゃないか。
明日の相手は誰の目からみても凛子が負けると思うほどに強いのか。
殺されるのは、嫌だな。
凛子は小さくため息をついた。
あちらこちらから皮袋に入った飲み物だのお菓子だの果物だのが差し出されて、
凛子の両手は見る間にいっぱいになった。
「ありがとうございます。」
あちこちから話しかけられるのを適当にあしらいながら歩き出す。
ようやく人波をふりきって階段をおりながら、凛子は行儀悪く、袋の中からロブスターを取り出した。
ロブスターもどきは尻尾の部分が剥いてあって、そこに何か柑橘系の匂いのする油を絡めてある。
齧りついた瞬間、濃厚な海老の甘みとこってりした油と爽やかな柑橘系の香りが口の中に広がった。
最高だ。
凛子は幸せな気持ちで袋からもう一匹ロブスターを取り出した。
今日、無事に終わって、よかった。
生きて、おいしいものを食べられるのは幸せなことだ。
本当に。
凛子は空を見上げた。
抜けるような青空。
自分の命が風前の灯とはとても思えない。
ペットボトルに詰めてもらったヴァンのジュースを飲みながら、闘技場から出たら、レノアが立っていた。
「こんにちわ。」
ペットボトルから口を離して、おもわず、かしこまる。
「おめでとうございます、というべきなんでしょうね。」
苦笑しながら、話しかけられる。
その素っ気なさを懐かしく思う。
「無事帰ってきました。」
「明日も試合ですね。」
すこし気がかりだという顔をされた。
「ええ。そう、らしいです。」
「城までおくりましょうか。」
「歩いて帰ります。」
馬に乗ってきたけれど、闘技場と城はそんなに遠い距離ではない。
街をつっきって30分もしたら城に帰れる、はずだ。
「そうですか。」
あっさりとひきさがるレノアに凛子は微笑む。
気にして、待っていてくれたことが、嬉しかった。
汗で体中がべとべとだった。足は棒のようで、体がひどく重い。
――川で水浴びでもしていこう。
「これ騎士団のみなさんでどうぞ。こんなに食べられないから。」
腕の中の屋台の食べ物をあらかたレノアに押し付けると、凛子は城に向ってゆっくりと歩き出した。
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