37. 隣の兄妹と血の色の娯楽と日の下の剣(ザッハ視点)


澄みきった空の色は群青。

闘技場の乾いた地面に、陽炎がたっていた。

時折吹く強い風が、森の木々の香を運んでくる。

石造りの大きな闘技場は、溢れかえる人で埋め尽くされていた。

すり鉢状の闘技場は8つに区切られ、間断なく試合が行われている。

一般の観衆とは区切られた貴族用の観覧席。

豪華な金糸の刺繍が施された乳白色の日除けの幕が張られている。

真紅の豪奢な椅子にザッハは、浅く腰掛けていた。

そもそも、主催領主代理であるザッハが特定の出場者の試合を目で追うなど、おかしな話だ。

だが、誰もそのことを指摘しない。

ザッハは肘掛にもたれかかり、ため息をつく。

理由は明白だ。

楔の少年は既に人々の注目の的になっていた。

もうこれで、3人目。

今リンコと対峙しているのは、髭の生えた若い男。

体重はリンコの倍はある。

厳しい戦いを勝ち抜いてきただけあって、動きが素早い。

少年の華奢な体に、激しい斬撃が容赦なく何度も振り下ろされる。

だが、リンコはそれを悉く受け流した。

ふわり、と

少年の体を纏う柔らかな風が見えた気がした。

ザッハは瞬く。

リンコの黒い髪がさらりと揺れた。

静かな気迫。

そして

描かれる無駄のない唯一無二の曲線。

蝶のように軽やかに。

蜂のように敏捷に。

少年の姿は、ただ美しかった。

この世のものとは思えぬほどに。

あらかじめ定められていたことのように、男の剣は弾かれて、地面を転がった。

少年の膝が若い男の体を押さえつけている。

両手で握られた剣は男の首に垂直に突きつけられていた。

「勝者、右。」

相手の男が負けたことを認めたのだろう。

横に佇んでいた審判人の声が響いた。

「これで3人目だ。」

観衆から感嘆する声があがる。

興奮したようなざわめきがあちらこちらで起きる。

それはそうだろう。

年端もいかぬ少年が大の大人を続けざまに破る。

圧倒的な力の差を見せつけながら。

楔は人の世の貴石。

その言葉の意味。

少年はひどく遠い存在なのだと実感する。

当たり前みたいに、傍らで笑いかけるから、

ずっと一緒にいられるのではないか、と錯覚を起こす。

迷わず差し伸べられる手の温かさを、何よりも失いたくないと思う。

「どうも、今年はすごいのがいるね。それにしてもまるで想い人を案じるような風情で見入っておられる。

 あの子とお知り合いなのかな。ザッハ殿。」

隣に座っていた青年が灰色がかった青い瞳をこちらに向けた。

ザッハが目線を向けると、

青年は綺麗に整えられた淡い金髪を長い指で優雅にかきあげて、皮肉気な微笑みを浮かべた。

シレイン領主の長子イーゼル・タム。

シレインはラーセルの西隣の領である。

領主代行として行事に参加することが多いイーゼルとザッハは見知った仲であった。

「あの少年はすごい掘り出しものだね。ザッハ殿。ところでギムザ殿と愛妾殿の姿がみえないようだが。」

ラーセルの跡継ぎ問題は、他領でも気にかかる事柄らしい。

軽薄そうに装ってはいる。

が、眼光の鋭さが外見を裏切っている。

まだその本性が隠しきれないのは彼の若さなのかもしれない。

そこまで考えて、彼のほうが自分より幾つか年上だったことを思い出す。

ザッハは思わず苦笑した。

「そうですね。どうやら来ておられないようだ。」

リンコを出場させることとなった元凶である、叔父のギムザと愛妾レオノーラの姿が闘技場にないことを訝しく思う。

「ザッハ様。ご機嫌よろしゅう。お久しぶりですこと。長い間お目にかかれなくて寂しゅうございました。

 晴れた空を見上げる度、ザッハ様の空色の瞳を思い出しておりましたわ。」

イーゼルの妹のメリスがザッハに微笑みかけた。

兄とは異なる焦げ茶色の髪に明るいはしばみ色の瞳。

瞠目するほどに美しいというわけでもないが、勝気な瞳が人目を引く。

ともすれば奔放ともとれる言動にも生まれのよさが滲み出て、好ましい。

「すまないね、ザッハ殿。妹は貴方のことを大層気に入っているんだ。

 いつも貴方を褒めちぎるので、閉口しているくらいでね。」

「いいえ、私のほうこそ、メリス様のお美しいお顔を拝見させていただけて、光栄です。」

水色の瞳に慇懃な微笑みを浮かべてメリスに一礼する。

メリスが頬を染めた。

「本当に、ザッハ様の微笑みは慎み深くて心が洗われるようですわ。お兄様も少しは手本になさったらよろしいのに。」

ザッハに微笑んだ後、イーゼルに憎まれ口を叩く。

「困った妹だ。確かにザッハ殿の微笑みは氷の微笑などと言われて、淑女方の間で人気があるが、私も満更捨てたものではないよ。」

「お兄様があちらこちらの花々を渡り歩いておられることぐらい存じておりますわ。」

「そう、どの花も美しくて、一つの花と定めるのは難しい。」

「好きになさったらいいわ。」

そのまま、ぷいとメリスが横を向いた。

「イーゼル殿もメリス殿もご壮健のご様子、なりよりです。」

どうも、この兄弟は苦手だ。ザッハは表情を変えぬまま心中で、ため息をつく。

調子が狂わされる。

「今年はどちらにしろラーセルの出場者が頂点に立ちそうだ。つまらないね。」

つまらない、といいながらイーゼルはどことなく楽しそうに話す。

「しかし、あの少年はいい。あの腕もいいが、案外見目も悪くない。」

気持ちのいい男だと思う。

悪党ぶってはいるが、隠しきれない

屈託のない明るさを、少々羨ましくも思う。

ちょっと気取った物言いも嫌味な感じではない。

だが、リンコに興味をもたれるのはあまり芳しくない。

「本当に。お兄様、あの子素敵だわ。うちの騎士になってくれないかしら。」

右手で精巧な細工の施された赤い扇子を持て遊びながら、メリスが楽しそうに相槌を打つ。

「あの少年は私の護衛なのです。どうかご容赦ください。」

本当に勧誘しそうな様子に少々困惑して、ザッハが微笑みながら釘をさす。

「ほう。」

ザッハの表情に何を感じたのか、イーゼルが含み笑いをしながら相槌を打った。

「あの少年もいいが、ザッハ殿。一番左で戦っているあの黒い服の出場者。

あれはラーセルの予選組だろう。」

リンコに気をとられ、他の出場者に目を配っていなかった自分を少し恥ずかしく思いながら、

イーゼルの指し示す方向を見た。

小柄な黒い服の男と屈強そうな大男が対峙している。

黒い服の男の表情は、長い前髪に隠れて伺うことができない。

あまりに白い男の肌は、何か不吉なものを感じさせる

青白い頬は白日の下にある闘技場にふさわしいものではなかった。

小柄な男が少し屈んだような気がした。

音もなく影が動く。

一瞬の後。

大男の首筋から赤い飛沫が噴出した。

どう、と重さのある物の倒れる音がして、大男が地面に転がる。

黒味を帯びた赤い色の血溜まりが砂地に次第に広がっていく。

「勝者、左。」

審判人の声が響き渡った。

黒い服の男が背を向けてその場から立ち去る。自分が殺した男を一瞥することもない。

観衆から大きな歓声が起きた。

黒い服の男が決勝に進むことが確定した。

ラーセルの人間が決勝に進んだというのに全く喜べなかった。

なんてことだ。

黒い服の男が操る剣技には、覚えがある。

暗殺を生業とする者が、扱う剣。

幼い頃にザッハ自身が身につけた暗殺用の剣術。

「お前の剣は日の下の剣ではない。裏道を生きるものの剣だ。」

父となった領主が幼い時に投げかけた言葉が脳裏をよぎる。

遠い日の記憶。

「全ての試合で、相手を殺して勝ち上がってる。

すべて首を掻ききるか、心臓を一突き。見事なものだね。」

どことなく憂うようなイーゼルの声に、現実に引き戻される。

黒い服の男の試合を逐一追っていたらしい。

目端の利くことだと思う。

「野蛮ですわ。」

口元に扇子をあてたメリスは気丈にふるまってはいるが、血にあてられたのだろう。顔色がすぐれない。

「ザッハ殿の護衛のあの子は大丈夫かな。明日はあの男と対戦することになりそうだけれど。ほら。」

ザッハとイーゼルの視線の先でリンコが次の相手と剣を交えていた。

4人目。

この試合の勝者が決勝に出場することになる。

最後の試合に人々の視線が集中していた。

リンコが対峙しているのは、見るからに柄の悪そうな男だった。

いままでの悪行がその顔に滲みでている、そんな下種な顔をしていた。

リンコは、汗で額に張りつく髪をかきあげた。

剣を構えるリンコの表情は幾分疲れている風に見えた。

だが、相手を見据える黒い瞳には、いつもの強い光が浮かぶ。

少年は、あたかも風を纏うように動く。

その鮮やかさにザッハは目を奪われる。

乱れることのない剣先は、あらかじめ定められた軌道を辿るように、動く。

細かく動作が定められた舞を見るようだと、思う。

少年が剣を閃かせる。

水を湛えたような剣の刃に、太陽の光が反射した。

押し倒された男と

その男に馬乗りになり、喉をめがけて剣を構える少年。

地面に転がる相手の剣。

明日の出場者が、確定した。

あちらこちらで熱狂したような歓声があがる。

「結局、相手に傷ひとつつけることなく勝ち上がったか。本当に見事だな。」

ザッハと同じく見入っていたのだろう。

心の底からの感嘆を隠そうともせずイーゼルが溜息をついた。

「誰一人傷つけず勝ち上がるほうが、対戦相手全てを殺して勝ち上がるよりも数段素晴らしいですわ。」

リンコを見つめるメリスのはしばみ色の瞳は優しい色をしていた。

少年は人の心を惹きつける。

「明日の試合が楽しみだ。私としてはあの少年に勝ってもらいたいところだが、そううまくいくかな。」

何事かを期待する人々の熱気が伝わってくる。

明日はより多くの民衆が押し寄せるのに違いなかった。

幼い少年が殺されるという見世物は残酷なだけに人の心を惹く。

模擬試合は騎士の選抜であると同時に民衆の娯楽だ。

たくさんの血が流れる、命を賭けた見世物。

――リンコ。全部勝たなくともいいといったのに。どうして勝ち上がるんだ。

迂闊だった、と思う。

明日行われる試合は優勝を決める一試合だけ。こうなってはどうしようもない。

ザッハに気づいたリンコがこちらに軽く会釈したのが見えた。

ザッハは水色の瞳を細めた。

眩いほどの太陽の光の下。

真っ直ぐ、自分に向けられる屈託のない、微笑み。

胸に広がるあたたかなもの。

胸をしめつける切ない気持ち。

惹きつけられて、目が離せない。

もしも、日の下の剣というものがあるなら、リンコ。

君の剣こそ、それに違いない。

感傷をふりきるように、ザッハは席をたった。

君に少しでも長く傍にいてほしいと思った。

早足で歩く。

リンコに会わねばならない。

そして、言わなければ。

魔物とともにどこかに逃げろ、と。

自分がひきとめてよい存在ではない。

ザッハは苦笑した。

そう。

はじめから、なかった。

湿った石の階段へ降りようとする一瞬、空の青さが視界をよぎる。

目に染みるほど青い空は、どこまでも果てなく続くようだった。

この空はリンコの国まで続いているのだろうか、と、そんなことをふと思った。


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