35. 弱音と蜘蛛の糸と明燭に赴く宵の虫(リュクセイル視点)


紫紺の空に太陽が反射した。

侵食してゆく夜の闇と消えてゆく昼の光が交差する一瞬の静寂。

このまま、お前を蹂躙して。唇に。肌に。

所有の痕跡を刻み付けたい。

リュクセイルは己の気持ちを持て余して、目を伏せた。

長い睫が白皙の頬に影をおとす。

冴えた光を放つ金色の髪がさらりとこぼれる。

甘い衝動を噛み殺して、そっと小さな肩を抱き寄せた。

「脅えるな。」

凛子の耳元に小さく接吻をして、リュクセイルはため息をつく。

「あまり、私以外の者に心を動かされるな。気が狂いそうになる。」

低い声で咎めると、凛子の耳朶が赤く染まった。

「耳元で変な声を出すな。リュクセイル。」

リュクセイルが喉の奥で笑うと、凛子はしばらく、黙る。

それから息を吐いて、無念そうな声で呟いた。

「でも、人の姿のリュクセイルに会えたのは、嬉しい。ちょっとほっとした。」

甚だ不本意だ、という凛子の声にリュクセイルは苦笑する。

凛子が腕の中で体を反転させた。困惑したような顔。

黒い瞳が強い光を放ってリュクセイルをとらえる。

小さく微笑んだ。

「久しぶり。リュクセイル。」

ああ、けれど。

目を合わせ、名を呼ばれるだけで、なぜこの心はこれほどの歓喜で満ちるのだろう。

リュクセイルはひどく幸せな気分になっている自分に気づいて、苦笑した。

「どうせ、お前は知ってるんだろう。本当は明日が怖い。殺すのも、殺されるのもいやだ。」

ぽつり、と凛子が下を向いて呟く。

「私に弱音を吐くか。」

リュクセイルは石榴色の瞳を細めた。

指先でそっと凛子の瞼を閉じる。

「怖いのならずっと目を瞑っているといい。私が終わらせてやろう。」

全部殺して終わらせてやる。簡単なことだ。

血の滴りを思わせる赤い瞳に冷たい光を浮かべる。

「リュクセイル。」

凛子が戸惑うような声とともに、リュクセイルの指を掴んだ。

黒い瞳がリュクセイルを見あげて、固まった。

「なんていう不穏な目だ。怖くなんてない。ただの愚痴です。すみません。

 いい。自分でやる。」

「でも、もし。」

そこで凛子は言葉を切って、リュクセイルを真剣な眼差しで見据えた。

気遣うような光を浮かべた、透き通るような黒い瞳。

「もしも私が死んだら、ごめん。リュクセイル。次の楔を探してくれるかな。」

「お前も、その言葉を言うのか。リンコ。」

リュクセイルは、知らず唇を噛む。

城に続く細い道は黒い土がむき出しのまま。

佇む2人の足元を夜風が通り過ぎていく。

「そんなことにはならぬ。」

リュクセイルは、小さく笑う。

「所詮、殺し合いの真似事だ。」

いざとなればあの男は試合を止める気だろう。

リュクセイルが手を出すまでもない。

止めることが可能だと思っているから、あのまぬけな男は凛子の出場を認めたのだ。

リュクセイルは形のいい口元を歪めた。

あの男は邪魔だ。

――けれど、あの男を殺したら。リンコ。お前は、私を。

「そういえば、リュクセイル。白い暁の魔物って知ってる。」

名を呼ばれて意識を戻す。

「懐かしい名だな。」

ふいに問われた言葉に、リュクセイルは遠い記憶を辿って答えた。

凛子が眉根を寄せる。

「リュクセイルは、会ったことあるの。」

リュクセイルは首を傾げる。

「それを知ってどうする。」

「白い魔物は、これが致命的な弱点だ、とか、そういう裏情報とかあったらいいな、とか思って。」

あの男の為にそれを問うのかと思えば、甚だ、面白くない。

「人ごときがどうにかできるものではない。」

素っ気無く言い切ると、凛子が軽く肩を落とした。

「案ずるな。お前は私の楔。お前に手出しはさせぬ。」

凛子を抱いたまま、ゆっくりと言葉を紡いで、そっと頬をなでる。

こちらに向けられた同情のまなざしに、リュクセイルは戸惑って瞬いた。

「見栄をはらなくても、大丈夫だ。リュクセイル。

 お前が弱いってことはわかってる。いざとなったら一緒に逃げよう。」

凛子が力づけるようにこちらを見た。

お前は何も知らぬ。

リュクセイルは呆れて黙り込んだ。

「だけど問題は、ザッハが一緒に逃げるかどうか、だ。逃げない、だろうなあ。」

「あの男のことなど、放っておけばよい。」

不機嫌さが言葉に滲む。

なぜ、お前は、あの男をそこまで、気にかける。

「お前を傷つけさせはしない。」

凛子が胡乱な目でこちらをみた。

「じゃあ、これは。」

右腕に無残に残る傷跡を差し出される。

「確かに、な。」

リュクセイルは白皙の頬に苦く笑みを浮かべた。

未来は見えない。人の心もまた。だから、完全に守りきることはできない。

僅かな衝撃で壊れてしまう。腕の中の柔らかな体。

いつまで。

いつまで、お前といられるだろう。

焦燥が胸を焼く。

時間がない。

「そろそろ離してくれないかな。」

凛子が身じろぐ。

こちらの機嫌を伺うように、おそるおそる問いかけるさまに知らず微笑みが浮かぶ。

「もう暫くこのまま。」

言葉は甘く掠れた。

凛子は逡巡するようにして、それから、ふっと体から力を抜いた。

諦めたように、そのままリュクセイルに身を委ねる。

――なんて、可愛いのだろう。

聡く優しい楔。

お前は私を拒まない。

それが、感傷だろうと、同情だろうと、かまいはしない。

ゆっくりと絡めとる蜘蛛の糸はお前にはみせない。

真綿のようにやさしく包むから。

――私に心を許せ。リンコ。

リュクセイルは腕の中の黒い癖のない髪に甘い口付けをおとす。 

夜の闇はいつの間にか辺りを完全に支配していた。

 

すべてが寝静まった真夜中。

リュクセイルは音もたてず、するりとベッドの端から降りた。

闇の中に一人二人。

呼吸する木々の静かな香りに混じって

生ぬるく暖かな生き物の血の香り。

「あれで、気配を消しているつもりか。」

呟きは闇に溶けた。

くっ、とリュクセイルはあざ笑う。

ああ、だが、手間が省ける。

出向く必要もない。

闇に乗じて、少しずつ力が満ちる。

造作なく人の姿をとれるほどに。


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