29. 本能の日和見と仮の楔と窓辺の会話(凛子視点)
天井に近いところに1つだけ小さい窓がある。窓の外は既に暗闇。
蝋燭のゆらめく光だけが部屋の中を照らしている。
凛子は部屋に入った時から既に燭台に火が灯されていたことに、気づいた。
リュクセイルに強くつかまれていた両手首がひりひりと痛む。
凛子は顔をしかめて、手首をさすった。
「痛むか。」
リュクセイルが眉根を寄せて凛子の手をとると、手首の赤くなったところにそっと唇を押し当てた。
冷たい唇の感触がした。
――自分でやっておいて、痛むか、はないだろう。
あきれて見上げると、すぐ上から覗き込むリュクセイルのうっとりとした視線にぶつかって凛子は困惑した。
「楔ってほかにいないの。」
――いるのなら、さっさと私を日本に帰して、次の楔にいってくれないだろうか。
そんな淡い期待を込めてリュクセイルに聞いてみる。
「楔は私が選ぶわけじゃない。本能が教えるのだ、これが私の楔だ、と。前の楔が死んでから百年。
しかも、この世界ではみつけられずにあっちの世界までいって、やっと出会えた楔が、お前だ。」
――楔ってそんなに数が少ないのか。
リュクセイルの言葉に凛子は衝撃を受けた。百年探してみつけられないってどんな確率だ。
トキ、ヤンバルクイナ、ツシマヤマネコ、アホウドリ、イリオモテヤマネコ、ニホンカワウソ。
日本の希少動物の名前が凛子の頭をよぎった。
――私はそんな大層なものじゃない。イリオモテヤマネコなんて恐れ多い。
せいぜいホンドタヌキぐらいが妥当だ。
探し続けた本人であるリュクセイルには申し訳なくて口に出すことを憚られたので、凛子は心の中で断言する。
たぶん、百年探し続けてみつからず、リュクセイルの本能がこのあたりで手をうっておこうなどと日和ったに違いない。
「百年か。」
凛子は言葉につまる。
「百年間何をしてたんだ。」
百年。人が生まれてから死ぬまで。あまりに長い時間だ。それとも魔物には一瞬のことなのだろうか。
凛子の問いに、もう見慣れた柘榴の色の双眸が凛子を見据えた。ゆっくりと微笑む。
「お前を探していた。」
――聞くんじゃなかった。
凛子は後悔した。リュクセイルが薄く笑うのが見えた。
「お前が私を愛してくれたらどれほど幸せだろう。」
ふざけた口調と裏腹に、強く抱きしめる腕はひどく優しい。その優しさがとても痛かった。
リュクセイルが微笑んだまま、凛子のほうに顔を近づけてきた。
顔をそむけようとした凛子の顔をつかまえて、唇が重ねられる。ひんやりとした冷たい感触。
「本当は……。」
そっと唇を離して、リュクセイルは静かに囁いた。
「こうやって触れ合えるだけでも私はとても幸せだ。」
凛子は唇を噛締める。
――そのセリフは反則だ。
「拒否せぬのか。」
リュクセイルが咽喉の奥で笑った。凛子は顔をしかめた。同情はいつも凛子を苦境に陥れる。
「嫌だ。でも。」
――百年。
拒否できなかった。その長さがあまりに重く感じられて。口ごもった凛子に、リュクセイルがくつくつと笑う。
「お前は情に脆いな。リンコ。」
ふわりと抱きかかえられて凛子は目を見開いた。
そのままタンと反動がつけられて、上へと飛び上がる。いつまでも落ちる気配がなくて、空中に浮いているのだと、気づいた。
体の重さを感じさせない動きにリュクセイルは人間ではないのだ、と改めて感じる。
小さいと思っていた窓は、近づいてみれば結構大きかった。
窓の外は漆黒の闇。
「このまま、お前を連れ去ろうか。」
リュクセイルがそっとその枠に凛子を降ろして、呟いた。石でできた窓枠は思いのほか広い。
リュクセイルも凛子と向かいあうように窓枠にもたれかかった。
窓の向こうが見渡せる。遠くにぼんやりと蛍の光のような明かりがたくさん見える。
街の明かりだ、と凛子は気づく。ザッハと馬に乗って歩いてきた街の明かり。
淡い光。その1つ1つに人が住んでいる。それが見知らぬ人々でも、なぜか懐かしい気がした。
森の木々の上にくっきりと月が浮かぶ。
月を見上げたリュクセイルに、凛子はふと疑問に思ったことを尋ねてみる。
「魔物って楔には逆らえないんじゃないの。」
魔物は楔に逆らえないというなら、なぜリュクセイルは凛子にキスしたり、あまつさえ襲いかけたりできるのか。
凛子を見たリュクセイルの視線に面白がるようなものが混じった。
「お前と私の結びつきの問題さ。リンコ。強く結びつけば結びつくほど、私はお前の言うことに逆らえなくなる。
お前は私の名を呼び、楔であることを受け入れた。」
――受け入れた、ことになるのだろうか。
凛子は不承不承うなずいた。
「先があるのさ。睦みあい、心の底から愛しいと思う。」
リュクセイルが片手を伸ばした。
頬を長い指がなぞる。
「魔物が人の姿をとるのは楔と触れ合いたいからだ。より深く、繋がりたい、その衝動は激しく私の胸を焦がす。
お前が私と深く繋がれば、繋がるほど私はお前に逆らうことができなくなる。
心か、体を。どちらか1つでもかなり深く私を拘束することができる。心と体を繋げば完全に私はお前に逆らえぬ。試してみるか。」
リュクセイルは楽しそうに呟いた。白皙の頬を揺らめく蝋燭の明かりが照らす。
凛子は石の壁にずるずると体をすべらせて、目を閉じた。冷たさが気持ちいい。
「遠慮する。」
凛子は目を開いてリュクセイルを見た。夜の風が一瞬凛子の髪を揺らした。
リュクセイルの金色の髪が蝋燭の光に淡く輝く。
――綺麗だな。
その輝きに凛子は見とれる。
「心も体も私に与えてはくれぬ。お前はいまだ仮の楔。それでも私はお前を求めてやまぬ。」
リュクセイルが肩をすくめて、戸の方に首を向けた。
「ああ、あの男が来る。どうする。本当にここに残るのか。リンコ。」
あまり面白くなさそうにリュクセイルが凛子に問いかけた。
「残る。」
あっさりと答えた凛子にリュクセイルはしょうがない、と呟く。
「お前がそれを望むのなら。手を貸そう。あの男を助けることになるのは癪に障るがな。」
「いい。自分でなんとかする。」
リュクセイルの気持ちに答えるつもりのない自分が、リュクセイルを利用するのは道理にあわない。
だが、他の剣でも、あんなふうに手になじむだろうか。
凛子は盗賊の頭のふりおろした剣をはじいた時のことを思い出す。
まるで皮膚の一部のようになじんだ剣の感触。
リュクセイルが苦笑まじりに赤い瞳を細めた。
「お前が傷つくと私は辛い。お前が死ねば、私はなお辛い。己の為にお前を助けずにはいられぬ。焦がれる身は哀れだな。」
リュクセイルは自らの服に手をかけた。
剣に姿をかえるのだ、と気づいて、凛子はふと寂しさを覚える。
「ずっと人の姿をしていればいいのに。」
遠い何かを思い出すような目をして、リュクセイルが凛子に言い聞かすよう囁いた。
「お前以外の人間と関わろうとは思わぬ。
それに、リンコ。お前が楔だということはあまり知られぬほうがいい。
楔は人の世の貴石。楔の力を欲する輩は多い。お前が気に入っているあの男とていつかお前を利用するやもしれぬ。」
リュクセイルの長い指が名残惜しそうに凛子の頬をもう一度撫でた。
黒い布が一瞬にしてリュクセイルを包み、そして布が姿を消して石の上に一振りの剣が残された。
刀身に蝋燭の明かりが映って、揺れる。
暗闇は寂しさを浮かび上がらせる。
「リンコ、まだ起きてるか。」
その時、扉の向こうから遠慮がちなザッハの声がした。
――そう、私は、少なくともこの世界で1人きりではない。
それはとても心を慰められる事実だった。薄明かりに照らされた部屋の中を見下ろす。
それから凛子は目を見開いた。窓から床までの距離。
――ものすごく高い。
窓から床まで優に3メートルはあるということに気づいて、凛子は愕然とした。
――どうやって降りるんだ。
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