25. 狼と虎とフェロモン(凛子視点)


凛子はしばらくザッハが出て行った扉を眺めていた。

扉の色は茶色。両開きの扉は磨かれて美しい輝きを放っている。

地面に敷かれている複雑な文様の描かれた赤を基調とした絨毯。

椅子にぽつんと座って唇に指をやる。

ちゃららら、男は狼なのよぉ気をつけなさいーという音楽が頭の中を流れた。

――ザッハまで。

日本にいる時には全く色っぽいことなどなかったのに、

ここのところ立て続けだ。凛子は複雑な表情のまま首を振った。

初めから抱きついてきたリュクセイルはともかく、ザッハまでキスしてくるとは思わなかった。

しかも、忘れてくれ、はないんじゃないだろうか。

ふらふらとその気になるなんてザッハは真面目そうに見えるのに実はムッツリ助平なのだろうか。

それとも何か自分から男を誘うフェロモンとやらがでているのか。

いつのまにそんなものがでるようになったのだろう。

――あれか、森君から告白されたあたりからか。

凛子は少し不安になって、後ろに背負っていた鞄をおろすと中から鏡を取り出した。

――普通の顔だ、ちょっと疲れて見えるのは気苦労のせいだろう。

凛子は鏡を静かに閉じると、鞄の中にしまう。

もう一度鞄を背負い直しながら、いやいや、と思い直す。

自分にはそのフェロモンは見えないのかもしれない。

フェロモン、響きだけでもなぜかこうイヤラシイ感じがするではないか。

色をつけるならおそらくピンク色だ。

――私の周りを漂うピンクの空気。

いやな想像だな。凛子は溜息をついた。

「リンコ様。ザッハ様からお部屋にご案内するようにとのお申し付けがございました。

どうぞこちらにいらしてください。」

いつのまにか扉を開けてエスタが椅子の方まで来ていた。エスタが礼儀正しく一礼する。

「ザッハの部屋にですか。」

凛子が恐る恐る尋ねると、エスタは小さく笑って否定した。

「いいえ、ザッハ様のお隣の部屋にご案内するようにとお申し付けでしたが。」

凛子はほっと息をついた。

――だが、隣か。いつでも夜這いができる。

椅子から立ち上がってエスタについて廊下を歩きながら凛子は腰につけてある剣を見た。

――いざとなったらザッハには昏倒してもらおう。

凛子はその剣自身が破廉恥な魔物であるということを思い出して、うんざりした。

「前門の虎後門の狼。」

今の状況がまさにそれだ、と凛子は呟いた。

廊下の絨毯は渋い赤一色。

ところどころに棚があってなにやら高価そうな壷やら彫刻やらが飾ってあった。

「何かおっしゃいましたか。」

エスタが静かに凛子に問いかけた。

「いいえ、なんでもないです。」

小首をかしげてからエスタは凛子に向かって優しい目をした。

「ザッハ様のあのような笑顔を見たのは本当に久しぶりです。」

エスタの独り言のような言い方に、何と返事をしていいかわからず凛子が言葉につまる。

「そうですか。」

ザッハはやはり普段から暗いのか、と凛子は思う。

階段は人がやっと1人通れるだけのスペースしかない。

多分軍事的な理由だろうと思われた。それに思い当たってひやりとする。

――この世界は本当に物騒だ。

「テレーゼ様がお亡くなりになった後、誰かを傍に置こうとなさったのはあなたが初めてです。

ザッハ様はお味方がいらっしゃらない。どうか、ザッハ様のお傍にいらっしゃってください。」

エスタがふいに階段で足を止めると、真剣な顔で凛子を見た。

大切な人が亡くなった。それがザッハの表情に時折浮かぶ暗い影の理由だろうか。

あまりザッハ以外の人の口から過去を聞くのはよくないような気がして、凛子は戸惑う。

「テレーゼ」

凛子の呟きに、エスタが声を潜めた。

「ザッハ様が今まで唯一心を許された方です。リンコ様がお会いになった、

あの女狐に殺されたようなものです。くれぐれもリンコ様お気をつけください。」

凛子はあのぞっとするような悪意の込められた緑の目を思い出した。

――もうすでに殺されようとしている。

模擬試合を口にしたのはあのレオノーラという女だった。

「今はザッハ様の叔父上にあたるギムザ様の愛人ですが、したたかな女です。

ギムザ様の領地はこのラーセルの1/3を占めておりまして、政治力がおありです。

ザッハ様は諸事情の上こちらに養子として入られました。今回もザッハ様の

お命が危ないというのに、兵を動かすことも出来ませんでした。」

悔しそうにエスタが唇を噛んだ。憤りからか青白い頬に一瞬朱が浮かぶ。

――なぜ、子供と言っていた私にそのようなことをいうのだろう。

「どうして私にそんなことを教えてくださるんですか。」

凛子が怪訝な顔で質問すると、エスタは小さく笑った。口元に皺が寄る。

「先ほど扉の外でお聞きしました。模擬試合に出られるおつもりでしょう。

ザッハ様の為に命をかけてくださるおつもりがある、と感じました。

それならば、私達は同士です。同士と思ってよろしいですね。」

最後の言葉は確認するようにゆっくりと発せられた。目が笑っていなかった。

――扉の外でお聞きした。それは盗み聞きというのではないだろうか。

凛子は疑問を抱く。

「そう、ですね。」

凛子は戸惑いながらも答えた。確かに凛子はザッハを守りたいと思った。

――しかし、命をかけるつもりは別にないんだけど。

エスタは両手でぎゅっと凛子の手を握った。

「私はザッハ様の為にいつでも死ぬ覚悟でおります。1人でもお味方が欲しいのです。

ザッハ様は特別にリンコ様を気に入られたご様子でした。」

そういうとエスタは無表情ながら意味深な目で凛子を見た。

「ザッハ様のお心を慰めて差し上げてください。あなたの明るさで。」

何かわからないまま、凛子は曖昧にうなずいた。

「はあ。」

エスタは静かにうなずくと、そのまま階段を登って、3階の突きあたりの部屋へと凛子を通した。

――横のクリーム色の扉の向こうがザッハの部屋かな。

凛子が通された部屋は全体がクリーム色でまとめられている。木製のベッドと机と棚が置かれていた。

少しラングル亭の部屋に似ていた。ところどころ布に精巧な刺繍が施されていることや、

木製の家具に細工があるのが違いだろうか。

「それでは。おそらく後でザッハ様がお呼びになると思いますので、それまでごゆっくりなさってください。」

エスタが一礼をして、出ていこうとするその時、

凛子のお腹が大きな音をたてて鳴った。

凛子は情けない表情でエスタを見た。エスタは一瞬おどろいた顔をしてから、微笑んだ。

「後で軽い食事をおもちしましょう。」

エスタはそう優しく言い残して去っていった。

5分程すると40代位の女の人がパンを籠に入れて運んできてくれた。

ミルクもついている。

早速机に座ってパンを齧りながら、凛子はエスタに好意を抱いた。

ザッハをとても心配している様子は、まるで子供を心配する親のようだった。

パンはラングル亭のパンのように焼きたてではなかったが、バターは同じ味がした。

2個目のパンを口にした時、ベッドの上から声がした。

「リンコ。こんなとこにいることはない。今すぐここを出よう。」

凛子が振り向くとベッドの上で少女の姿のリュクセイルが不機嫌な顔で座っていた。

――虎がでた。

凛子はパンをごくりと飲み込んだ。


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