21. 唇の感触と家庭環境の違いと遠雷の音(凛子視点)


ザッハが唇に触れた瞬間、ふいにリュクセイルの唇の感触がよみがえった。

――なぜ

凛子は赤面した。

思わず俯く。動揺するのは仕方がない。

凛子の辞書に大人のアレコレについての記述はない。

ザッハが凛子の顔色をみて怪訝な顔をした。

「大丈夫かい。何か顔が赤いけど、体調が悪いのか。」

凛子は少し躊躇してから、しぶしぶと答える。

「さっき魔物に。」

魔物、という言葉にザッハの目がすっと細められた。

――いや、ザッハが思っているようなことじゃないんだけど。

凛子は我ながら少し情けない、と思いながら言葉を続けた。

「接吻されたのを思い出して。」

凛子が赤くなっているのを見て、ザッハはなんと言っていいやらといった微妙な表情になった。

「接吻ね。魔物は君を独占したいんだろう。だが、リンコは恋愛するにはまだ子供すぎる。少し酷いな。

接吻したの初めてだったのかい。」

凛子がうなずく。ザッハの視線がふと凛子の唇にとまるのを感じる。

その時ザッハの水色の瞳がふっと熱っぽさを帯びた。そのままじっと見つめられる。

――なんか雰囲気が違う。空気が重い。

「なんかついてますか。」

その妙な空気に耐え切れずに凛子がザッハに尋ねる。

ザッハは、少し驚いた顔をして凛子を見て、それから不自然に視線を逸らした。

焦げ茶色の髪がザッハの端整な顔に影を落とす。

「いや、なんでもないんだ。すまない。」

ザッハの耳が微かに赤くなっている。

――別にいいけど。

凛子はのびをすると、やれやれとベッドの上に立ち上がって床に飛び降りた。

下に落ちていた白い布を拾うと、ベッドの上の剣を無造作につかんで、丁寧に布で巻く。

玲瓏たる刃の光。

この眼で見てもまだ信じられない。

この剣があの美しい魔物だとは。

赤い石が一瞬存在を主張するかのように光る。魔物の破廉恥ぶりを思い出す。

凛子はその赤い石にもぐるぐると布を巻きつけた。

凛子は鞄を背中に背負う。

――学校の鞄、背負えるデザインで本当によかった。

   このサバイバルな状況を想定してつくられたわけじゃないだろうけど。

「身代金要求されてるなら、周りの人心配しているでしょう。早く帰らないと。」

凛子がベッドの上でまだ困惑したような表情を浮かべているザッハを見る。

「いや、おそらく心配はされていない。」

表情をいつも穏やかなものに戻して、

あたりまえのことのように、淡々と答えるザッハに凛子は同情した。

――劣悪な家庭環境だな

凛子の家族はおそらく夜もねむれずに心配してくれていることだろう。

申し訳なさで涙がでそうだ。

――なんとか生きている。安心して欲しい。半年後には帰る。

と心の中で念じてはいるがおそらく届いてはいまい。

「焦ってもそんなに変わらないよ。着替えて、食事をしてから家に向かおう。」

ザッハが軽く頭を振ってベッドから立ち上がった。

優雅な動作でそのまま凛子の後ろを通り過ぎる。

扉の近くにおちていた服の包みを拾って凛子に微笑んで、手渡した。

「これはリンコの分の着替え。気に入ってもらえたらいいけど。」

服は茶色。

施された刺繍がとても綺麗だった。

朝の食堂は夕べの喧騒が嘘のように落ち着いていた。

なにか胡桃に似た木の実の入ったパンとまだ柔らかいバター。

それからターネムという変わった紅茶のような味のするお茶がついてきた。

ミルクと砂糖がたっぷりとはいっている。

――甘い。

郷愁にひたって、凛子は目を閉じる。

――三松屋の宇治ミルクかき氷も今年は1度食べたっきりで終わりだ。半年後帰れる頃には真冬だろう。

ザッハを見つけたようで、奥のほうから宿屋の主人であるラングルがでてきた。

「いつも御贔屓にしていただいてありがとうございます。鍵はここでお預かりしときますよ。」

でっぷり太ったお腹が何回みても景気がいい、と凛子がラングルの腹の肉に目を奪われている時、

ふとラングルが声を潜めてザッハの耳元に囁く声が聞こえた。

「ロードスとの国境沿いできな臭い噂が。」

――不穏な話だ。

凛子は嫌な予感に眉をしかめた。

国境というからには、ガヴァサイルの隣国はロードスというのだろう。

戦争とかにまきこまれたら、きっとまた生き残るのに一苦労だ。

半年は平穏無事に過ぎて欲しい。神様そこのところくれぐれもよろしく。

凛子はまたもや神に祈る。こんなに頻繁に神に祈ったことなどない。

こちらの世界にきてから苦しいときが多すぎるのだ。いい加減にしてほしい。

「いつもすまないな。」

ザッハがにこやかな表情のまま、ラングルの手に鍵と一緒に金貨を1枚滑り込ませたのがみえた。

扉を開けると、太陽の光が目にしみる。

すでにザルドとよばれた浅黒い顔をした初老の厩番が馬を出してくれていた。

「じゃあ、いこうか。リンコ。」

ザッハに手をさしのべられて、今度はうまくふわりと馬にまたがることができた。

馬の背から見える抜けるような青空。

だが、凛子の耳には微かに遠雷の音が聞こえたような気がした。


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