18.愛を乞うものと名を呼ぶものと服を落としたもの(凛子視点)


――半年後しか日本には戻れない

ザッハが分けてくれた盗賊のお金。

あれで半年の食事代及び宿泊代がまかなえるのだろうか。

浮浪者、乞食、行き倒れ、といった単語を思い浮かべて凛子は思わずよろめいた。

その瞳には強い決意が浮かぶ。周りを見渡す。

広いベッド、掃除のいきとどいた部屋、こざっぱりした家庭的な調度品、大きくとられた窓。

石壁は上品な白で、部屋を明るい光で満たしている。

良い部屋だ。

――このような宿屋はきっと高いに違いない。どこかに住居のようなものを借りねばなるまい。

「しかも早急に。」

最後の言葉を思わず口に出した凛子だった。

「お前はもとの世界に帰りたいと望むのだな。」

凛子の切羽詰った金銭事情とは全く関係のない話題が上から降ってきた。

――帰れなければ、いずれ野垂れ死ぬじゃないか。半年だって生き延びられるか怪しいものだ。

   コネもツテもない私に何の仕事があるというのか。

   いや、ザッハについていけばご飯ぐらいはめぐんでくれるかも。

凛子はこの世界における唯一のツテであるザッハを思い出す。

私の家にくるといい、と言っていたから、ご飯ぐらいは面倒をみてくれるかもしれない。

だが、それが半年間続くとなればどうだろう。

さすがに嫌がるのではないだろうか。

――いっそ、犯罪に手をそめるべきか、それとも身体を……無理だ。

そこまで、思考を進めて、凛子はふと気配を感じて上を向いた。

そこには、思いつめた目をした魔物の赤い瞳があった。

その瞳に浮かぶ光に身の危険を感じる。咄嗟に後ろに下がろうとして、石の壁が背中に当たった。

凛子はしかたなく柘榴のような色の瞳と視線を合わせる。

「なにも警戒する必要はない。私がお前を害することはない。」

魔物は少々傷ついた目をして、凛子の頬を指先でたどりながら、そっと呟く。

穏やかな声。

――そんなに警戒する必要はないのかもしれない。

まったくこちらの意思が通じないというわけでもなさそうだ、と凛子は判断する。

「気になってたんだけど、なぜ私が楔なの。あと、祝福ってなに。」

凛子は自分の頬をたどる指を掴んで止めると、魔物に問いかけた。

「なぜかは知らぬ。が、誰が楔なのかは分かる。

あの雨の中でお前が近づいてきた時、既に楔だと気づいていた。

そして、目が合った瞬間、お前の目に絡めとられたのさ。」

自嘲するように顔を伏せて、それから凛子に微笑む。

その目に真摯なものが含まれているような気がして、凛子は少し胸が痛くなる。

――そんな目で見るのはやめて欲しい。

「魔物は、楔に愛されたいと願う。

私はお前に愛を乞うているのさ。

それゆえ、お前が望むことを自分の力の及ぶ限りかなえようとする。

それが祝福ということだ。」

日本に私を帰すこともできないというその力が、いかほどのものだというのか、と凛子は遠い目をした。

凛子の中で、この魔物は力の弱い魔物なのだろうという評価が固まりつつあった。

――愛

重い響きの言葉だ。初恋もまだの私にそんなものを求められても、与えようがない。

魔物はかわった生き物を見るように凛子を見た。そして、己の身体を確認して、溜息をつく。

それはとても人間くさい動作だった。

「お前は女の私の方が好きなのだな。」

なにか言いまわしが変な気がした。

凛子はしばらく考えて、

――男か女どちらが好きかという意味なら、まあ、

「むさくるしい男の人よりは女の子のほうがいいけど。」

と答えた。女の子はいいにおいがするし、やわらかい。

「――そうか。まだ、恋を知らぬのか、幼いな。」

魔物が大きな溜息とともに言葉を吐き出した。

なにか馬鹿にされているような気がして、凛子は黙り込んだ。

その瞬間、映像がぶれるように少女の輪郭が揺らいで、次の瞬間凛子は目を見張った。

――なっ

少女の姿は青年の姿に変わっていた。

ドレスは黒い服に、金色の髪はそのままに手足がすらりと伸びて、均整のとれた体つきに、輪郭は鋭角的に。

整った顔立ちは、やはり人形のように無機質で、性別が変わっても圧倒されるような美しさはかわらない。

そして、赤い瞳に浮かぶ獰猛な光も少女の時とかわらなかった。

青年の姿になった魔物は軽い溜息をついて凛子の肩を抱いた。

「魔物には雌雄の別はない。楔に愛されるためにその姿を変える。

お前に愛する者がいないのなら、好都合だ。

私のことを愛するといい。リンコ。」

魔物はそっと凛子の名前を口にした。

それは何かを壊すことを恐れるような柔らかな声だった。

「私の名はリュクセイルという。」

そして、リュクセイルと名乗った魔物は何かを待つように凛子を見つめた。

――名前を呼んでほしいのだろうか

その赤い瞳は肉食獣の目だった。捕食する者の目だ。けれどひどく悲しそうだった。

凛子はそのことに気づく自分を罵倒したい気がした。

手をのばすことには責任がつきまとうのだ。きっと、より深く絡めとられる。

分かっていても、その悲しみを無視することができなくて、結局、凛子はその名を口にする。

「――リュクセイル。」

凛子がゆっくりとその名を言い終えた瞬間。リュクセイルの眦から透明なものが白い頬を伝って落ちた。

それをみて、凛子は息を止めた。

――涙。

魔物も泣くのか。

「くっ、ふっ、ふふ……。」

泣いているのか笑っているのかよくわからない表情でリュクセイルはしばらく天を仰ぐと、

なにかをふっきたように目を開けた。その目には強い意思が込められていた。

「楔だけが、私の名を呼べる。

リンコ、命尽きるときまで、私の力と知恵は全てお前のものだ。

善悪の区別なくお前の願いを叶えると誓おう。

私の名を呼ぶがいい。私の楔。」

――命が尽きるときまで……。死ぬまでこの魔物につきまとわれるのか。それは想定外だ

何よりも、そこの所に凛子は強い衝撃を受けた。

魔物がうっとりと凛子に顔を近づけた。

それを凛子は瞬きも出来ずに見つめる。

――柔らかい。

軽く触れた青年の唇に凛子は目を見開いた。

――いったい、なぜ

凛子の動揺ゲージは今まさに振り切れようとしていた。

青年はあきれたように呟く。

「お前は本当に幼い。」

そして言葉をきった。

「お前がそのほうが安心できるというのならば、当分先ほどの姿でいるとしよう。」

青年の輪郭がゆらいで少女の姿へと戻った。

――ファーストキス

こんな世界で、こんな得体のしれない生き物と。凛子は固まったまま全く色気のない感想を抱いた。

「リンコ。早く大人になるといい。」

少女がその姿に合わぬ艶っぽい表情で囁いた。

――大人になったらどうなるというのか。

凛子は衝撃の連続に何も答えることができなかった。

代わりに後ろで、なにかががさっと落ちる音がした。

凛子がのろのろと振り返るとザッハが紙に包まれた服のようなものを下に落として、茫然と立ち尽くしていた。


 目次   BACK  TOP  NEXT

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送